なつやすみ日記

猫のような日々

ロックの定義

アメリカ音楽史 ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで (講談社選書メチエ)

アメリカ音楽史 ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで (講談社選書メチエ)

大和田 俊之のアメリカ音楽史読了。

 アメリカ音楽というのは他者に偽装することである。黒人が白人のふりをしたり白人が黒人のふりをしたりと単純な構造もあるが、ヨーロッパ社会においてあまり良い印象を持たれていなかったユダヤ教徒が白人になるために黒人の仮装をしたり、白人が黒人を演じていたのにいつのまにか黒人がその役割を担うようになったり、他者に"偽装する"というテーマで複雑に互いの文化が混淆していく構造がある。

 

1950年代に入り、ビルボード誌のチャートでそれまでみられなかった動きが目立つようになる。当時の業界はポピュラー音楽の三つの市場---白人中産階級向けの「ポピュラー」、南部を中心とする白人労働者向けの「カントリー&ウェスタン」、そしてアフリカ系アメリカ人向けの「リズム&ブルース」---を想定していたが、ひとつの楽曲が複数のチャートに登場しはじめるのだ。

アメリカ音楽史 ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで (講談社選書メチエ) 作者: 大和田俊之 p150-151

 

 その人種混淆、文化混淆の末に生まれた存在がエルビス・プレスリーであり、 そこからロックンロールというジャンルが絶大な支持を若者から得るようになる。そして非常に商業的な成功を収めたという点が重要である。ロックンロールは商業的である。

 

 一方、フォークというジャンルは反近代的で反商業的なイデオロギーを内包していた。Folkという単語を直訳すると民衆という意味になるが、民衆(労働者階級)の文化を支持しなくてはならない共産主義達に利用されてきた歴史がある。それは日本の学生運動で歌われていたURCレーベルのフォークソングの類を見てもわかることだ。ちなみに共産主義者達の政治利用を忌避するために保守的な思想を持つようになりフォークから分離したジャンルがカントリーである。アメリカでカントリーが流行ると保守層が選挙で勝つと揶揄されるのはそういう背景がある。 彼らは反商業的である。

 

 大量の電気を消費するアンプリファーでエレキギターを大音量で鳴らす行為は資本主義の象徴であり、反近代反商業を標榜とするフォークソングを演奏するのにはアコースティック楽器が好まれた。演奏者は歌詞やメロディーを観客に伝わせるだけの存在だった。言わば歌詞とメロディーを覚えているジュークボックスのような機能がシンガーの役目だった。ここでロックファンなら誰でも知っている逸話を思い出してみよう。ボブ・ディランが1965年のNewPort Folk Festivalにおいてアコースティックギターからエレキギターに持ち替え観客からブーイングを受けたという逸話だ。


Bob Dylan - Live at the Newport Folk Festival ...

 

ブーイングの嵐だ。音楽評論家のポール・ネルソンが以下のようなコメントを残している。

ディランの新しいR&R、R&B、R&?にノックアウトされた・・・・・・。彼の新しい音楽は最近聴いたあらゆるジャンルのなかでもっともエキサイティングなものだ。実際、ニューポートの観客はディランがエレクトリック・ギターで演奏した曲にブーイングを浴びせていた。

Paul Nelson,"What's Happening,"Studio A:The Bob Dylan Reader,ed.Benjamin Hedin(New York W.W.Norton,2004),47

 

冒頭の「R&?」 には目撃したばかりの音楽をうまく言葉に出来ない評論家の興奮と困惑が表れている。

〜中略〜

先に述べたとおり、フォーク・ミュージックは反近代主義と反商業主義をかかげる音楽である。そこで重要視されるのは歌のメッセージであり、言葉の伝達を容易にする場の親密さである。フォークに傾倒する人々にとってエレクトリック・ギターはテクノロジーの象徴であり、大音量の音楽は歌詞が聞き取りにくい点で認めるわけにはいかなかった。そして、なによりそれはビートルズに代表される商業主義のシンブルだったのだ。ボブ・ディランがニューポートのステージにエレクトリック・ギターを持参して現れたとき、多くのファンが「裏切り」と感じたのは故なきことではない。

〜中略〜

「ロックンロール」と「ロック」を厳密に区別したうえであえて後者を定義づけるとき、このエピソードは示唆に富んでいるといわざるを得ないだろう。フォーク・ミュージック界の若きスターが電化することで、そのシーンに内在する反体制的で反商業的なイデオロギーがロックに受け継がれたのだ。つまり、ロックはフォークのイデオロギーを抑圧し、それを商業主義の枠内で実践しようとするジャンルだといえる。その結果、ロックは商業主義にまみれながら商業主義を嫌悪し、体制的な産業構造の中で反体制的な価値観を主張するという矛盾を抱え込むことになる。

アメリカ音楽史 ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで (講談社選書メチエ) 作者: 大和田俊之 p182-183

 公民権運動に代表される当時のアメリカの社会運動を肯定するものとして登場した音楽が私達を肯定するために私を歌う音楽が必要であったと本書では指摘している。60年代のアメリカは様々な思想、様々な民族、様々な人種が権利を主張していた時代であった。誰かに偽装するのではなくて、私を主張することが必要であった。故に誰かが私達自身に偽装して歌ってくれる存在私達自身を歌うフォークが必要とされていたが、私達自身を歌うボブ・ディランエレキギターを手に取った瞬間ブーイングを受けたのはそのためである。彼が鳴らしてみたかった楽器で、彼は私達自身ではなくボブ・ディラン本人、自分自身を歌ってしまったからだ。誰かのために鳴らしているはずなのに、自分のためにする音楽がロックである。それは孤独であることを意味する。共同体に属しているが、それになじめることが出来ない存在とも表すことが出来る。クラスの端っこで授業をサボってイヤホンでロックンロールを聴いているイメージでもいい。ロックファンが社会からはじき出された存在、アウトサイダーを好んで消費する構造の根幹はここにある。

 

 故に売れてしまうとそのメッセージは霞んでしまう。大勢の人間に認知されるということは孤独じゃなくなるからだ。その矛盾を抱えたまま売れてしまうとどうなるか?著者の大和田氏は「文化系のためのヒップホップ入門」という対談書で、こう語っている。

長谷川 ロックで「ドロップアウト」を歌うってことにも矛盾があるんですよ。「ドロップアウト」を歌って人気者になると、打破しようとしている資本主義社会の成功者になっちゃう。所詮は商業音楽ですから。

大和田 その矛盾を真面目に考えすぎるとジム・モリソンやカート・コベインみたいに自己破壊に向かってしまうということですね。

〜〜中略〜〜

大和田 以前、菊池成孔さんが、ロックとフォークは自殺ばかり考えていて、ラテンは他殺のことばかり考えていると言っていて、この図式で言うとヒップホップも完全にラテンですよね。

P228-229

 

文化系のためのヒップホップ入門 (いりぐちアルテス002)

文化系のためのヒップホップ入門 (いりぐちアルテス002)

 

 商業的で反商業的であるという矛盾を回避するには自殺するか、もしくはU2のボノのように偽善的になるかどちらかであると語っている。

 

 誰かのために歌うことを必要とされた瞬間にロックは矛盾を抱えることになる。浦沢直樹の大ヒットコミック「20世紀少年」で宗教団体が主催したロックコンサートについて主人公が「ロックにはいろいろ定義があるが、こんなものを俺はロックとは認めない!」という台詞は象徴的だったと感じる。洗脳された人々が自身の安寧のために同調するための音楽、そこに個人はないし、孤独もない。主人公達が物語終盤でウッドストックフェスティバルを模したフェスを開催し、人々を権力から解放していくという演出は、権力の庇護の下の安寧を捨て、孤独(個人)を受け入れることを意味する。

 

 そういえば日本のユースカルチャーに当てはめてみると少し疑問が浮かぶ。「俺、バンドやっているよ」という人は枚挙に暇がないが、「俺、ロックやっているよ」という人間はあまり見かけない。けいおん!という可愛い軽音部の女子高生が主人公のアニメがあるが、その作中でも「バンドやろうぜ!」というメッセージは見かけるが"ロック"というワードを見かけることはなかった。女の子達が仲良くキャッキャウフフしているだけで、そこに孤独や葛藤はない。だが、この作品は大ヒットして、様々なグッズが作られアニメ関連店だけではなく楽器屋でもCDショップでも売られ、高校の軽音楽部でよく演奏されていたという事実もある。http://portal.nifty.com/kiji/111109150374_1.htm

 

 ロックンロールがある時期にロックと袂を分けたようにロックバンドがある時期に"バンド"というジャンルに分離してしまったのではないかと思っている。それについてもうちょっと考えていきたいと思う。