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なつやすみ日記

猫のような日々

クリエイティビティーについて。

自分の物を作るということを電車の中で考えていた。自分の物を作る・・・とイメージするとDIYでノコギリか何かを埃まみれの倉庫から引っ張りだして木材を切っていく作業を思い浮かべたが、それはかつて誰もが小学生の図工の時間にしていることだ。クリエイティビティーを養う素晴らしい小学校のカリキュラム。それが図工。そこで作った模型やコップ等のちょっとした家具は作った当時は幼心なりに気に入っていたと思うが年を重ねるごとに愛着は薄れていき、作品の稚拙さが気になって行く。たぶん、それは思春期を迎える頃に恥ずかしさに堪えきれず捨ててしまったり、壊さずにいたとしても実家を出るときの荷物に入っていないであろう。

 

たぶん、そこで自分の手で作ることを諦めるか諦めないかという岐路に立たされ、クオリティー&クオンティティーを両立させようと好んだ人達が美大やデザインの大学に進むのだろう。それではそれ以外の人達はものづくりは嫌いなのか?それは違う。誰もが何かを作って楽しんだことはあると思う。ただ、結果が気に食わないだけなのだ。他の物と比べて醜い作品。部屋に置いておくだけでもおぞましい。こんなもの捨ててしまえという気分に陥らせてくれる。自分で作るよりは遥かに洗練されたデザインのものはお金を払えば簡単に手に入る。それこそ100円ローソンに行けばツルツルのお皿が簡単に買える。

 

ただ、それは他人が作った物である。何の創造性もないことである。創造性とは図工の授業で体験した物を作ることの楽しさのことである。つまり、創造性がないことはつまらないものである。*1ここに自分が望んだ楽しさなどないのだ。

 

これは暴論かもしれない。例えばファッションなど既製の製品を個人の好みで組み合わせて楽しむことも創造性だ。プリコラージュする能力は人間に備わっており、それもまた簡単に誰もが楽しむことが出来る。

 

だけど、僕が言いたいことはそういうことではない。単純に僕がつまらない人生に陥らないための処世術としてこのエントリーを書いている。それはつまり、「人生つまんねえな」「彼女欲しいなあ」と言いながらユニクロで買った服を着ながら松屋を食べて愚痴を吐いている自分の姿に対する警告である。人生を楽しくするにはどうすればいいのか。答えは簡単だ。創造的でいればいい。

 

山田玲司のコミック『絶望に効くクスリ』で富野由悠季がインタビューで語っていたことだけど、機動戦士ガンダムの劇中に出てくるニュータイプとは何か?という問いに対してコンビニで買えるオニギリですら沢山の人が関わっていると感じられる人がニュータイプだと語っていた。逆に何も感じずに食べてしまうのがオールドタイプなのだろう。それはたぶん僕や多くの人が当て嵌まる。たぶん、消費をするという人間の行動は極最近のことなのかもしれない。少し前まで他者を感じることが出来たのではないかと僕は思っている。だから、屠殺場に行くと普段食べている肉が食えなくなるなんて人が出て来てしまう。とても残酷なことだ。それを受け入れるも受け入れないも個人の自由であるけど、古代からベジタリアンを信条とする人がいたことを馬鹿には出来なくなる。ただ、そういうことを感じられない人達はあいつらなんで肉を食えないんだ?馬鹿じゃないのか?と揶揄をし始める。誰かを感じられないから畏怖をしないからそういうことになってしまうのではないか。

 

自分が感じている漠然とした不安はそこにあるのかもしれない。生活に他人が感じられないことが一抹の不安になるのだろう。喜びや畏怖がない空白な空間に置かれている。可能性として不快な経験をするかもしれないのに、奇妙なことに僕はそれを求めている。それの解決策としては自分が物を作る立場になり、作品を発表することで承認欲求を満たすことであろう。他者から必要とされる、それは即ち、他者を嫌でも感じることが出来る。ただ、僕も含め大抵の人間は作品を作っても誰かに注目されることはない。図工の時間に作った作品は稚拙なものだからだ。

 

それでは誰かに自分の物を作ってもらうことは自分の物ではないのだろうか・・・と、僕は考えた。例えば、オーダーメイドという行為は自分にあったものを他人に作ってもらうことである。自分の好きな色、自分の好きな形、自分の好きなサイズ、そういった注文を聴きながらプロフェッショナル達が自分のための作品を作る。そうして出来上がった作品は誰の著作物だろうか?プロフェッショナルの物だけのものか?それとも注文者の物なのか?注文者でもプロフェッショナルの作品ではなくて、共同で作られた著作物である。単純な所有権という意味では注文者の物ではあるが、注文者の意思が入った作品である、彼が何の技術を持たないとしてもね。

 

そうして得た物で他者を感じないで不安になることはあるのだろうか。おそらく、本当の意味で気に入ったものが出来る気がする。昔の人はたぶんお金持ちも貧乏な人もみんなそうしてきたのかもしれない。お金持ちのほうが意思の介在は容易だったと思うが、割合は少なくなるが貧乏人でもわりと意思が入り込める余地があったのではないかと思っている。お茶碗一つにしても作っている人が近くに住んでいて地域の人達に消費されるからだ。もしとんでもなくアヴァンギャルドなお茶碗を作ったらその人に消費されないから、少なからず地域の人が必要としていることのために作るだろう。もちろん、現代でも自分たちのためにあらゆる製品が作られていることを顧みると自分たちの意思が介在しているはずだが、個人の意思が他者を感じることが出来ないほど弱くなってしまっているのだろう。

 

でも、僕たちは過去に戻ることは出来ない。この社会で生きなくちゃいけない。そうした社会で生きる術として、富野監督はコンビニのおにぎりですら沢山の人達が関わっていることを想像出来る人間がニュータイプと言ったのだろう。それはあまりに理想的で、とても彼らしい発言であると僕は思うけど、僕のようなオールドタイプへの処方箋は誰かのために役立つものを作っていくことなんだろう。他者を感じるようになれっと。

 

追記

 

 楽器を練習する意義が見いだせなくなりました。音楽をしていて楽しくないのです。演奏したい曲はあります。しかし、うまい人がたくさんいる中で比較して、自分がやる意義というものが見いだせなくなりました、考えてしまします 

http://q.hatena.ne.jp/1404362129

 

『桐島部活やめるってよ』という邦画がある。ある登場人物が映画研究部に所属する主人公が才能もないのに映画を撮影し続けているのに不思議でいた。彼になぜ映画を撮影し続けるのか尋ねた。そこで出て来たのが以下の台詞だ。

 

「うーん、でも時々ね、俺たちが好きな映画と、今、自分たちが撮っている映画がつながっているんだなと思う時があって、ほんとにたまになんだよ、たまになんだけど、へへへ」

 

 好きなことだから他人なんか気にするな、自己満足でやれ、という意見がよくあるがそれだと絶対長続きしないんだよね。なぜなら本を読むにしても作者のことは感じているし、楽器を弾くにしても作曲者のことを感じているんだよね。誰かのことを気にしてしまう。そういった繋がりが感じられなくなったときに人間は失望するし、多くの人が大人になるにつれて趣味を辞めてしまうのもそういうことだと思う。作曲者の通りに弾けたとか、作者の言っていることを理解したり、コミュニケーションなんだよね。ただ、一方通行のコミュニケーションだであるから、小さい子が自分のことしか話さなかったのが大人になるにつれて相互通行のコミュニケーションに変わっていくわけで、作者のことを一方的に理解するというコミュニケーションは大人になるについれてキツくなっていくんだよね。もちろん童心を忘れない人はいつまでも続けられるだろうけど、みんながみんなそうではない。だから、大人になると急にみんな趣味を卒業し出す人が増える。僕が質問者にやってみてほしいことは誰かのために練習してみたらどうだろうか?ということだ。Youtubeに有名曲のカヴァー演奏などをアップロードしたりするのはどうだろうか?保証は出来ないけど、そこでオーディエンスから反応があったら楽器を練習するモチベーションにも繋がるのではないのだろうか。相互間コミュニケーションだからね。

 

絶望に効くクスリ―ONE ON ONE (Vol.5) (YOUNG SUNDAY COMICS SPECIAL)

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ウィンドウ・ショッピング―映画とポストモダン (松柏社叢書―言語科学の冒険)

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*1:コンピューターなどのカスタマイズ性に優れる製品が楽しい理由は創造性があるからである。