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なつやすみ日記

猫のような日々

ポップカルチャーで生き残るために

ちょっと前に読了しました。

 

僕と九龍ジョーさんは顔見知りの関係だ。新宿ゴールデン街のとあるバーで行われていた「メモリースティック」の出版記念イベントでお会いしたときに、僕が書いた「遊びつかれた朝に」の感想記事を褒めてくれた。

 

jassmaz.hatenablog.com

 

「誰かに言われたからではなくて興味があるから書いてくれたんでしょ?」と彼は酔っぱらいながら何度も僕に言ってくれた。その時、佐々木敦さんのレコメンドが脳裏をかすめた。

 

売れたものに後乗りするしか能のない輩だらけのカルチャー批評において、
ただ一人、真に新なる胎動をいち早く察知し、徹底的に加担し、
自らの筆で刻々とドキュメントしてきた男、それが九龍ジョーだ。
本書の登場によって、ようやく遂に「テン年代」が始まる! ! !
——佐々木敦(批評家)

 

これは「メモリースティック」の帯に書いてある佐々木敦さんのレコメンドだ。DIY精神、インディ精神、自主精神・・・九龍さんが関わっている本を表すとしたらそんな言葉がぴったりだ。感傷的に表現すれば、好きなものを好きだって伝えたいから書いている、そういう精神性だ。「誰かに言われたからではなくて興味があるから書いてくれたんでしょ?」という僕に投げてくれた言葉は彼の行動理念からのシンパシーだったのかもしれない。*1

 

メモリースティック」は九龍ジョーさんがいままで発表した原稿をもとに加筆修正した著作集だ。音楽と映画*2、非正規労働問題などの社会問題、演劇、プロレス、落語、一見すると広範囲に執筆活動をしているように見えるがいくつかに絞れるはずだろう。そのうちの一つが繰り返すように出てくる「インディ」という言葉だ。

 

映画や音楽の場合、小規模の製作集団を指す言葉であるが、もともとは独立性が元来の意味である。あらゆるインディの製作物はなんとなく受け手側も作れそうな雰囲気がある。悪く言えば素人臭い、良く言えば親しみやすい、自分から半径5メートルの範囲のものだと錯覚させてくれるものだ。

 

○○年代前半、フリーターと無職を行き来しながらとくにやるべきことのなかったぼくは、八王子の実家で、毎日のようにマンガ喫茶に通っていた。夜な夜な家族が寝静まるのを待ってAVをおかずに自慰をした。疲れ果てては寝そべった。また朝が来て、太陽が昇り、目が醒めたら昼過ぎで。マンガ喫茶しか行くところがなかった。なにもできない。なにもしたくない。誰にも必要とされていない。あのぐったりとした感覚がいまでも身体に刻み込まれている。

運良く出版の世界に潜り込むことができた。2004年に初原稿料を受け取っていらい、さまざまな媒体と出会い、原稿を書く機会を得た。音楽、映画、演劇、文学、プロレス、お笑い、マンガその他、ポップカルチャーについて書くことで、半径五メートルぐらいの自分がどうやったら社会とつながることができるのかを考えていた。いや逆かもしれない。できるかぎりウソくさくないやり方でつながろうと思ったら、そこにポップカルチャーがあった。 

P3、メモリースティック ポップカルチャーと社会をつなぐやり方

 

例えば普通に生活していて手にする音楽は自分の足から地続きに出来ているだろうか?きっと、そう感じる人は少ないだろう。過剰包装されたテレビから登場するスター達は遠い国のおとぎ話のようなものだ。美しい演奏やスペクタクルな風貌、それを殺陣のようにスリリングなカメラワークで僕達に披露してくれる。そんなものが自分が生活している社会から近い地続きの存在と思うことが出来るだろうか*3

 

半径5メートルは、自分の足から地続きに感じられる存在、自分が直に触れられる距離を意味する。つまり、九龍ジョーさんは自分が直接触れられる距離内でライター活動を続けてきた。 もしかしたら煌びやかさに欠ける活動かもしれない。ただ、本書に納められている原稿の多くは副題にもなっている「ポップカルチャーと社会をつなぐやり方」の精神性で書かれている。あくまでも彼の個人的な感情を起点として、決して大袈裟な社会問題と自己を同一化せずにルポタージュするスタンスのことである。これは誠実に書かれた文章ではないだろうか*4。そこに噓臭さは無い。

 

僕が一つ勇気づけられたことがある。僕の勝手な妄想かもしれないが、著者本人、登場する人達は不明瞭な未来に戦い続けているように見えた。それは演劇の世界で幅広く活躍する前田司郎さんのインタビューが示していた。

「若かった頃は未来が潤沢に感じられたんですよね。それが、だんだん歳をとっていくにしがって、過去ばかりを見るようになってきちゃって。目の前のつくっているものを、過去につくったものとすぐに比較してしまったりするんです。もっと言うと、『未来』が『過去』によって確定してしまっている感覚というか。この先、こういうことが起こって、評価されるとしてもだいたいこの範囲で、年収もこのぐらいでつらいことがあってもだいたいこの程度で・・・・・ってふうに、未来が過去の蓄積によって見えてしまう。そういう状況が何年か続いて、ある種のスランプに陥っていたんです。でも、似たようなことを、小説や映画にした『ジ、エクストリーム、スキヤキ』という作品で登場人物に言わせてみて、自分で気づいたんです。そこで言う『未来』って、あくまで過去のデータからシュミレートされた未来であって、それは本当の未来ではない。未来っていうのはホントはなにが起こるかわからないもので、べつに過去からできてるわけじゃないんだと。それこそ明日死ぬかもしれないし、地球だって終わるかもしれない。未来なんてどうなるかはわからないじゃないかって。そのことに、ようやく実感が持てるようになってきたら、若干スランプを抜けたというか。このことは、最近つくってる作品のテーマにもなってます」

P176-177  

 

 

未来に何が起こるかわからない。しかし、実は自分自身の思い込みから未来を生成してしまっているかもしれない。これはイギリスの社会学アンソニー・ギデンズ再帰的自己(近代化)の概念に近いかもしれない。彼は近代化が進んだ社会を「モダニティ」と呼び、モダニティには「時間と空間の分離」「脱埋め込み」「制度的再帰性」の特質があると主張した。この特質が最高度に展開しているのが現在の現代社会であり、ギデンズは「ハイ・モダニティ」とよんでいる。上記のシステムは病気や事故などの前近代的な危機や不安を払拭することが出来たが新たな不安を呼ぶものだった。それが未来への不安である。

 

私たちはこれまでにないほど広範な領域のなかで、複数の専門家システムからつねに新たな情報や知識を取り入れ、それらを駆使しながら生きている。しかしそうであるがゆえに、生きる場である社会はつねに粒度的に変化しつづけている。こうした社会のあり方を、ギデンズはドイツの社会学者ウルリヒ・ベックの言葉を借りて「リスク社会」とよんでいる。このリスク社会に生きるということは「肯定的にせよ否定的にせよ、行為の開かれた可能性に対して計算的な態度をもって生きるということ」である。

ここに、ハイ・モダニティを生きる私たちの生の姿が映し出されている。すなわち、私たちはもはや自分自身の未来を「たんに来るべき出来事の予期」としてとらえることはできなくなっているそうではなく、未来とは、「知識が、知識自身が形成された環境へと持続的に還流されるという意味で、現在において再帰的に組織される」ものになっている。この言い方は少々難しいが、つまりはこうだ。モダニティ以前の社会においては、未来とはまさに「おのずとやってくるもの」であって、それが変わるということをことさら考える必要などなかった。それに対して、私たちの住む社会は先にみたように今や新たな情報や知識が次々と登場するのにともなって修正され、変化していく。当然、その先にあるはずの未来の姿もまたつねに変化する。こうした状況においては、未来とは、ある時点で、それを素人する者がもちえている情報や知識にもとづくかぎりでの将来予測である。その予測は、まさに現在において存在するのであって、それがそのまま既定の未来として確実にやってくるという保障などどこにもない。いわば、一定の将来予測をしながら未来に向けて私たちが生きていくことは、リスクをはらんだ営みだということになる。私たちはつねにリスクを計算しながら、本質的に流動的で不確定な社会を生きていくのえある。

このようなリスク管理についての態度が浸透していくと、若者は、リスクを避けて下手な冒険をしない無難で確実な生き方を選択するようになるし、社会の側でも逸脱行動をする若者をリスク要因として排除することになる。

P43-44 

ポストモラトリアム時代の若者たち (社会的排除を超えて)

ポストモラトリアム時代の若者たち (社会的排除を超えて)

 

 

 

僕たちは色々な不安を抱えながら生きてそれが反映した社会に生きている。例えば、不況だから安定した公務員になる、グローバル化だから英語を学ぶ、自分に音楽の才能は無いから音楽活動なんてしたって無意味だ、というふうに現在持っている情報から未来を再帰的に作ってしまっている。確かにそれは本当に未来に起こりえることかもしれないが、あくまでも可能性に過ぎない。

 

メモリースティック」で紹介されている「どついたるねん」というバンドはとんでもない量の作品を発表することで知られている。例えば、6008曲入りのアルバムを発表したり、矢継ぎ早にYoutubeに動画をアップロードしたり、本屋が閉店するから暴れに行ったり無茶苦茶だ*5。もちろん作品の多くは玉石混淆(というかほとんど石!笑)である。客観的に見れば音楽を作る能力は低いのかもしれない。おそらく彼ら自身も自分自身の能力については把握していたと思う。ただ、彼らは出し続けた。

 

彼らが暴れたりむちゃくちゃなことをするのは決められてしまった未来を破壊するために行っているように見えるのだ。そして宝石のように光り輝くポップソングも作れるようになった。


どついたるねん「Perfect Love」 - YouTube


どついたるねんPV 遠浅の部屋 - YouTube

 


どついたるねんMV 生きてれば - YouTube

 

 

どついたるねんは渋谷WWWでワンマンライブを出来るようになった。トラックメイカーのウガイ氏は嶽本野ばら氏に曲を提供したり、演劇の劇伴を任されたりしている。彼らを「ハッタリ」「見せかけ」と揶揄する人もいる。つまり、無才であることを指摘しているのだが、本当に何もしなかったらここまで来れたのだろうか。彼らはあらかじめ決められた未来に抵抗し続けたからここまで来れたと僕は考えている。

 

メモリースティック」には前田司郎さん、どついたるねん、他にも前野健太さん、豊田道倫さん、大森靖子さん 倉内太さん、松江哲明監督が登場している。そういえば松江哲明監督も日本のインディペンデントで生き残るための本を上梓している。

 

映像作家サバイバル入門  自分で作る/広める/回収するために

映像作家サバイバル入門  自分で作る/広める/回収するために

 

 

 日本でインディ映像作家として生き残るのが絶望的に難しいことが説明している。その状況で生き残るための策が「映像作家サバルバル入門」に書かれている。彼も何もしなければ未来は変わらず死んでいった。座して死ぬのを待つのを拒否し、自分の頭で考え抵抗したから生き残った。

 

映像、演劇、音楽・・・etc、何にせよインディペンデントで個人の創造性を自身の人生の思うがままに発揮するには苦しい状況であると僕は思っている。様々な原因があると思うが、僕の一番好きだった音楽のインディペンデントシーンは死屍累々だ。学生卒業後にどれだけが生き残ったのだろうか。

 

ただ、抵抗しなければ変わりはしない。「メモリースティック」に登場する人達は闘い続けている。まるで下手なダンスを踊っているようで滑稽な姿に見えるかもしれない。でも、それは自分自身の内的な物に対する闘いかつ、他者に対して変化を促すものではないだろうか。僕はとても美しいものだと思う。

 

 

*1:僕はただ良い物が世界に残らないのが悲しいし、他の人が誰も書いていないし、このままだと消えてしまうから穴掘り作業を代行している感覚に過ぎない。

*2:特に韓国インディを含めているのも面白いです。

*3:芸能人に馴れ馴れしくクソリプを飛ばし続ける人は違うだろうけど

*4:ナイーブな方法論だと思う人もいるかもしれない

*5:吉祥寺のバサラブックス。3月下旬に再オープンした。