なつやすみ日記

猫のような日々

イジメは学校構造の問題ではないのか?障害者イジメ被害者の当事者がイジメについて語る。

 
この数日間、小山田圭吾氏の障害者イジメ問題の炎上が続いている。僕は発達障害でイジメ被害者で少なからず当事者性があるわけだが、僕が思っているのはファンもアンチも両方とも僕のことをイジメそう*1ということだ。

 

僕は特性から生じる脳機能の問題で空気が読めなくて身体性(身体の動きが不自然)も不自然だ。ようするに空気の読めないキモい動きをする人間なわけだ。どういうふうに空気が読めないかといえば、小山田圭吾氏がオリパラ音楽担当に起用されたと聞いた時に炎上している人を尻目に「ははは、またやってら〜*2コーネリアスのうんこネタみんな好きだなあ」と呑気に言っているぐらいだ。みんなが真剣に話している時に笑ってしまったり、不用意な発言で怒らすというのは日常茶飯事だ。みんながなぜ怒っているか感じることが上手くできない。もちろん後天的に身につけた処方術で「小山田圭吾氏を起用した広告代理店の人はリスクとか考えなかったのかな?」と思うぐらいには常識を身につけてはいるのだが、これは単なる後天的に身につけたパターン認識なので咄嗟に反応したり、共感したりすることが非常に苦手である。不器用な人間なのである。故にいじめられる。

 

普通の人は強い共感性を持っていたり、他者に対する関心を強く持っていることが多いのだろう。故に本質的に自分自身に無関係だとしても「イジメ許さん!吊し上げろ」となるし、擁護する側も何らかのコメントを出して他者に対して共感や関心を示している。

lineblog.me

イラストレーターの中村佑介さんの記事がバズっていたが、中村氏は若い頃から小山田圭吾氏の人格に疑問を抱いていたが、小山田氏の結婚や出産でコーネリアスサウンドが変わったと言っている。このような人がいるから、ロッキンオンジャパンクイックジャパンが二万字インタビューで音楽とは無関係な話を長々と書き散らしパブリックイメージが作られてセールスにも繋がっていく。それが嘘か本当か定かでないのに。Twitterで散見されるように、そしてメディアで喧伝されるように、当時の音楽産業に関わっていた人間が当時の文化事情を考えてくれと釈明していますが、結局、読者もグルであり、自分の人生に当て嵌めて共感して音楽を消費する。あの音楽は自分にとって良い、あの音楽は自分にとって悪い、そんなふうにある種の政治的力学が働いて権力や秩序といったものを強化されていく。

 

アンチに取っては小山田圭吾の音楽は「障害者イジメをする悪い奴だ」と他者に関心を持ち、悪い音楽となり、いまやYoutubeコーネリアス関連のコメント欄はひどい有様になっている。本質的に自分自身の人生に関係ないのに関わらず。

 

権力や秩序は人によって好みが違うし、それは移り変わりゆくものであるし、それは学校のクラスルームも同じことで、いじめ問題の専門家の内藤朝雄先生は著書で以下のような理論を用いて説明している。被害者と加害者といった二項対立を超えて構造的に問題があるのではと論じている。その一つとして制度・政策的な変化による秩序の変化について以下のように語っている。

 

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引用「いじめの社会理論」内藤朝雄 P-115 

市民社会的な制度・政策的マクロ環境Aから、構造的に共同体を強制する文化大革命隣組や大日本少年大といった制度・政策的マクロ環境的Bへとマクロ環境が変化すると、生活環境におけるローカル秩序の生態学的布置が太極的にβ-秩序優位になる。そして、β-秩序優位の生活環境で「あたりまえ」の現実感覚が変容し「ニコニコしていたおじさん」が怒鳴り散らし「卑屈」な少年が暴君になる、といった出来事が社会のすみずみで蔓延しだす。

(中略)

たとえば日本の敗戦とともに、隣組で怒鳴っていた迫害者は「にこにこ愛想のいいお店のおじさん」に戻り、少年団の「小権力者は社会が変わると別人のように卑屈な人間に生まれ変わった」(中井、1997、22ページ)また学校の集団生活で残酷ないじめにふけっている者ほど、市民社会の論理が優勢な場面では「おとなしく、存在感の薄い」少年に変貌する。マクロ環境の変化と共にこういったことが社会のすみずみでいっせいに起こるのである。

 引用「いじめの社会理論」内藤朝雄 P-114,117 

 

 

ファンもアンチも属している秩序が違うだけであり、またそれは世の中が変わることで被害者が加害者にも回るし、加害者が被害者になることもあり得る。何らかの権力や秩序に深く関与出来るということはすなわち暴力に繋がることがあるということだ。そしてそれは風見鶏の如く状況によって変化するし、令和日本も世の中が変化して、手の平を返す人たちは山のようにいる。例えばかつて会社で公然として行われていたパワハラなどだ。
 

 

 

SF作家の樋口氏はそのような人のことは軽蔑するし一緒に仕事をしたくないと言う。もちろん見方を変えればそのような同僚は既存秩序の変化に合わせて適応しているとも言えるし、一方で適応できない人間は不器用な人間として生きにくいのかもしれない。はだしのゲンの鮫島みたいな厚顔無恥な人間は生きやすく、戦前戦後からもスタンスを曲げないゲンたちは生きにくいのかもしれない。ようするに空気を読むという能力が強い人は強い秩序の匂いを嗅ぎ分けることが得意であるし、共感することも得意なのだろう。というか、世の中的には鮫島みたいな人が一般的であるのだろう。例のいじめ問題について当時のライターや文化人も「当時から良い気持ちはしなかった」と手のひらを返すように。もちろんそれははだしのゲンで鮫島が醜悪な人物として簡単に認識できるが、現実の自分を見つめることは何をするにしても難しい。現実問題として私たちは無意識に手のひら返しを行うことが多いのだろう。学生時代にイジメをしていた加害者も卒業してからは「なぜあんなことをしてしまったのだろうか」と夢のように感じてしまうように。

人間が状況や構造によって暴力的や隷属的になるのはよく知られていることである。インターネットの民が大好きなスタンフォード監獄実験である。esという映画にもなっている。

スタンフォード監獄実験 - Wikipedia

 

前述の内藤朝雄先生は世界の国々の教育政策タイプを学校共同型、学校教習所型、地域軍団型と区別して説明している。若者の生活をトータルに囲い込むことを期待されるタイプが学校共同型であり、もっぱら勉強を教えることを期待さえるタイプが学校教習所型であり、学校ではなく地域集団のほうで集団主義教育をするタイプが地域軍団型である。もちろんお気づきの通り日本の教育は学校共同型である。内藤先生は明確に共同型を批判している。

教習所型の場合、基本的に学校は乱暴なことをやっても大丈夫な居場所ではない。学校は共同体とみなされないので、自分たちのムカつきを受け止める容器、あるいは包み込み子宮のような空間とはみなされない。暴れたらあっさりと法的に扱われ、学校のメンバーシップもあっさりと停止されがちである。それに対して日本は、学校共同型の極端に突出したタイプであり、その極端さが「日本的」と呼ばれてきた。

(中略)

共同体を無理強いされた者たちのあいだで蔓延する。なぜ一緒にいなければならないのかわからない者たちと、心理的な距離をちぢめさせられ、共に響き合う身振りを毎日やらされていると、こういう未分化な憎悪が蔓延する。共同型の学校では、ネズミや鳩を檻の中でむりやりベタベタさせると通常では考えられないような攻撃性が生じるという、あの過密飼育実験を、わざわざ税金をドブに捨てながらやっているようなものである。

引用「いじめの社会理論」内藤朝雄 P31

 

内藤先生は共同型学校がどのように歴史的に構築されてきたかを説明し、構造的に暴力が発生しやすいと語っている。構造的に暴力が発生しやすく、前述したようにクラスルームに大きい秩序が存在したら小さい秩序はイジメに合う。そこに小さい秩序となりやすい障害者を放り込んだらどうなるのだろうか。 

http://www.wako.ed.jp/e2/integration/

小山田圭吾氏の出身校である和光学園では共同教育という名目で実際に行われているそうだ。

ハンディをもった子にとっては民主的な能力などの発達を促すこと、健常児については少数者・弱者の立場に立ってものを考えられる力をつけること、それは人間としての発達に大きな意味があることだと考えています。

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共同教育 – 和光鶴川小学校

昨晩、和光学園の出身者の方が告発のnoteを書いていた。

note.com

上記のnoteによれば理念とは裏腹に障害者は暴力に合い、教師は見て見ぬふりをしていたそうだ。内藤先生に言わせれば「当然の帰結だよ」と言いそうだが、内藤先生がいじめを無くしたかったら以下のようにしたほうが良いと結論を出している。

密教育の檻を解体し、各人が自由に距離を調節し、学校のねばりつく関係性の襞に対して(やろうと思えば)よそよそしく距離をおいて生きることもできる権利を保証するのが、単純明快な正解である*3。しかしこの正解は、一部の教育系の人たちの「國體」を否定するものだ。彼らの深層の価値指向にとっては、若い人たち個人個人の自由や人権や生命身体の安全よりも、大いなる命としての教育共同体の方が大切である。

引用「いじめの社会理論」内藤朝雄 P34

上記と似たような主張のツイートもあった。

 

結局、このような構造を作った側が悪いのであり、加害者と被害者といった単純な二項対立自体がナンセンスである。もちろんイジメ被害者の全員がそういうふうに思うように出来ればいいが・・・。以下の言葉で締めたいと思う。全人類が以下の言葉のように出来ないからイジメの報復も起きるし、戦争も止められない。しかし、目指すべき地というものはある。

神がすべての人を愛するように、あなたの敵をも愛せ。

引用:新約聖書「マタイによる福音書

 

*1:もちろん小山田圭吾も僕のことをいじめそう(笑)

*2:音楽ファンなので2ch小山田圭吾スレを覗いたことがあるから

*3:また具体的な施策・政策の提案は本著で主張している。しかし、2001年の著書であるため、内容がアップデートされている可能性が高いので興味がある方は内藤先生の最新の動向を追ってもらいたい。