なつやすみ日記

猫のような日々

左翼活動家の態度にはうんざりという話

当方自営業なので、批評的な文章を書いている暇があれば事業資料を作っているほうが金にもなるし、世の中に対して建設的ではあるが、colaboの騒動を見ているとうんざりした気持ちになり様々な思考を巡らせてしまったがために本稿を書いている。

 

まず自分のポジションを明らかにする。colaboの仁藤氏とは同世代である。また自分自身は人文学部出身であり文化人類学社会学現代思想を学んでいた。要するに左派としてレッテルを貼られるような立場である。

 

そして本題だが、何がうんざりかと言えば日本の右派も左派も思想的にはねじれた存在であり、戦後以降は互いにマッチポンプとして存在していたことである。内田樹氏が以下のURLで如何に日本の活動家がねじれた存在であるか説明している。例えば、外国の基地が自国にあることを容認する右派は日本にしか存在しないことを指摘している。

 

blog.tatsuru.com

 

上記のURLでは自民党について語っているが、日本の左派の側もねじれを抱えている。もちろん左派は明確な統治構造を持たないために分派が数多く存在する。キリスト教カトリックは一つしかないが、プロテスタントは様々な宗派があるようにレッテル張りとして「共産党!」「左翼!」と一様に語るのは難しい側面がある。その上で私の意見を見てほしい。

 

彼らは自由や民主主義や人権を声高く主張することである。これがねじれである。

 

なお旧東側諸国は、自由も民主主義も人権は存在しない。そもそも人権とはヨーロッパで市民革命以後に出来た概念であり、共産主義の言葉を使えばブルジョワジー革命以後に出来た概念である。

 

現在の日本でも左翼とレッテル張りされる人々が声高く主張する人権とは多くの欺瞞を抱えたものである。例えば、日本人の大半の人間が利回りのみで生活できるような財産などないが、財産の保障が人権の一つである。大半の人間は自分の労働力を企業に提供してお金を稼ぐしかないにも関わらず財産とは一体何なのだろうか。

 

職業選択の自由というのがあるが、自らの意思で好みの職につけている人間が日本にどれだけいるだろうか?学問の自由というのもあるが、私のように社会的に全く必要とされていない経済的価値が低い学問を学んでも就職活動においては評価されない。誰もが小さい頃から教師に「将来何になりたいか?」と問われる。果たしてこの文化がいつはじまったかはわからないが、少なくとも職業選択の自由という意味で問いているのは間違いないだろう。しかし、本人が望んでいるからと言え将来的に金が稼げそうにもない学問にも関わらず借金(奨学金)をさせて学べることが正しいのだろうか?

 

人権の包括的権利として生命・自由・幸福追求権や法の下の平等があるが、知的障害者にも適用される。しかし、知的障害者が他人に暴力を振るってもお咎めなしである。一方で健常者が知的障害者に暴力を振るうと警察沙汰である。友人が知的障害者施設で働き始めてから「植松聖の気持ちがよくわかった」と言っていたのが印象的である。もちろんそういった施設の管理者は障害者の権利には煩くても労働者の感情には無配慮であることが散見される。

 

上記のようなことを記述すると左翼的な方々が反射神経的に「優生思想だ!!!」と騒ぎ立てるが、そもそもとして市民革命後、つまり近代国家で、更に言ってしまえば自由や民主主義や人権を実際に規定したドイツ共和国のヴァイマル憲法が生み出した問題は現代社会においても何一つ解決出来ていない。ただ単に臭いものに蓋をしているのが現実である。だから、戦後から約80年経っても反ユダヤ主義反知性主義反自由主義も優生思想も何度押し込めても墓場からゾンビのように復活する。

 

障害者福祉の撤廃を促すナチス優生学のポスター(1938年頃)「60.000ライヒスマルク。これがこの遺伝性疾患者の生涯に民族共同体が負うコストです。同志よ、これはあなたのお金ですよ。」引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/生きるに値しない命

 

知っている方も多いと思うが、ナチスユダヤ人だけを虐殺したのではない。国家のお荷物になる生産性のない人間を虐殺していったのである。前述の知的障害者はもちろんのこと、精神障害者などの労働不能者及び拒否者なども含まれていた。悪名高いガス室で大量に殺害をした。要するに福祉の負担になる人間は国家から効率的に科学的で工業的な手段で「削除」したのである。人権の保障をされた、福祉の対象であるために殺されたのだ。またガス室という科学的で工業的な手段も資本主義社会でないと実行できないものである。

 

昨今の日本社会を見返して見ればご理解いただけるように、福祉の負担になっているだけの経済生産性のない高齢者の批判で溢れかえっている。植松聖は知的障害者は生きていても価値がないために殺害した。杉田水脈議員がLGBTは生産性がないと言った。

 

生活保護者に対する批判も絶えることはない。彼らには経済的生産性がない。故に国家が「健康で文化的な最低限度の生活」を保障する。もしも保障など無ければ非難もされないのであるが、その場合は路上に大量のホームレスが溢れかえるようになる。ちなみに産業革命後にスラムのルポルタージュが様々書かれているので興味のある人は読んでみてほしい。

 

企業の生産性の足を引っ張りそうな発達障害者は特殊な就職試験で発達障害と見抜き排除し、生産性のない彼らは国家のお荷物になる。そして普通の人間から憎悪の対象を向けられることになる。なお私自身も発達障害であるので他人事ではない。

 

そしてナチスソ連のような社会主義国家も自由と民主主義を標榜する資本主義国家が誕生した故に発生しているということだ。もともとカール・マルクスは人類の理想国家である共産主義国家は段階を通じて発展していくと主張した。要するに欺瞞に溢れた不完全である自由と民主主義の資本主義国家から誰もが幸福になれるようなユートピアにいずれ到達すると信じられていたわけである。よって、資本主義国家の発展形であるナチスソ連のような国家も自由も民主主義も人権も否定するような国家になっている。

 

歴史は繰り返す。今もたいして変わっていない。人権があるが故に、福祉があるが故に、生産性のない社会的弱者は憎悪の矛先となる。

 

本題に戻るが、日本の左翼が声高く主張する人権は一体何なのだろうか。もちろんそれは分派によって異なるが、女性の権利、在日韓国人の権利、同和部落の権利、沖縄人の権利、労働者の権利、こどもの権利・・・など様々なものがある。colaboの件に関して言えば、家出少女の権利や女性の権利などが該当すると思うが、人権を主張する割には家出少女をオルグして辺野古基地問題に連れていくなど個人の思想信条の自由を思いっきり侵している。またよく炎上するように人権の一つである表現の自由に関しても強く干渉する。歴史を辿ればわかるように、そもそも人権や自由を否定するような立場であるので当然と言えば当然である。これが日本の左翼のねじれである。正々堂々と暴力革命で全ての権力を簒奪し独裁国家として好きなように作り直すと言ってくれたほうが筋道は立っているのであるが、現実には左派の多くが自由や民主主義や人権を主張するのが日本の政治状況である。

 

一方で自由民主党が提示する憲法改正草案からわかるように彼らが自由や民主主義や人権を守っている立場であるかと言えば微妙である。自民党ロビー団体明治憲法を復活させようと試みる日本会議などがいるからである。党名が自由で民主主義を標榜する名前であるが、政治的思惑は真逆である。これもねじれである。

 

日本国においては右派も左派も本質的な部分で自由や民主主義や人権などを守る思想的背景が存在しない。ねじれた存在同士が綱引きをし合って自由や民主主義や人権などを保っている状態である。そして、しばしば一般市民に対して嫌がらせとしか思えないことを行うので都市圏の市民には両方とも蛇蝎の如く嫌われれているのが共通の感覚であろう。自民党に関しては政治と金、そして昨今騒がせているように普通の市民感覚からしたら到底理解できないようなカルト宗教や大日本帝国憲法復活を目指すロビー団体との付き合いがある。それを追求する左派も同じような問題を抱えていて、例えば行政や大企業などの大きい組織に必ず存在する労働組合などは社員から会費を徴収し集まった金で誕生してしまったのが労働貴族である。働かないで組合運動しかしていないが大金を所有している人間である。これに悪感情を抱かない市民はいない。

 

もともと政治的に連動して福祉活動を行う左派活動家は上記のような乞食根性で行うのが伝統であり、colaboの件しかり藤田孝典氏しかりある意味で伝統的な左派活動家の行為と言える。だから昔から市民のマジョリティーからは嫌われている。構造的には今に始まった話ではない。労働者を守る側の左派にも関わらず労働者から搾取すると発言するのもねじれである。

 

右派も左派もいくらでも悪口は書けるが、両方蛇蝎の如く嫌悪しているのが市民のマジョリティである。そこに目をつけたのが外資コンサルタント会社マッキンゼー上山信一氏であり、中央集権に対しても強く不満を持っていた関西圏で大阪維新の会を立ち上げて成功することになる。東京においても小池百合子氏が同じことを実行するが中途半端な結果になってしまっている。しかし、都民ファーストが大勝利した構図は大阪維新の会と基本的には同じである。

 

個人的にとてもうんざりするのは、市民から嫌われているにも関わらず内省せずに突き進む一部の左派の方々であり、彼らの言葉を使えば自己批判すべき状況と思うが、そのような様子は一切見受けられない。そして赤い貴族労働貴族問題が令和になっても発生するとは思っていなかった。総括しないのか?

 

ねじれた存在同士が綱引きをし合っているのが日本の政治状況と書いたが、東浩紀氏が令和になった節目に「平成という病」という記事を発表している。

 

それはつぎのようにいいかえることもできる。平成は祭りの時代だった。平成はすべてを祭りに還元し、祭りさえやっていれば社会は変わると勘違いをし、そして疲弊して自滅した時代だった。 その性格は政治にはっきりと現れている。平成はじつは活力に溢れた時代だった。平成ほど「変革」「改革」が唱えられた時代はない。平成は、盛田昭夫石原慎太郎の『「NO」と言える日本』の出版と同時に始まっている。昭和の終わりは冷戦の終わりと重なっていた。平成の始まりは世界秩序の転換期の始まりであり、多くのひとが改革を夢見ることができた。

-中略-

けれどもその楽観は長くは続かなかった。そもそもそのような「改革」はすぐに効果が出るものでもなかった。一九九七年をピークに、平均給与は下がり始めた(国税庁調査)。生活はいっこうに楽にならず、人々は長引く不況に疲れていった。格差が話題になり、ニートワーキングプアといった言葉が流行語になった。そして日本の競争力は坂を転がるように落ちていった。九〇年代半ばにはアメリカの名目GDPは日本の一・五倍ほどだったが、一〇年後にはその差は三倍にまで広がってしまった(ちなみに本稿執筆の時点では差は四倍以上に開いている)。日本人はようやく、だんだんと、もしかしてこの国はダメなのではないかと思い始めた。

-中略—

安倍晋三は二〇一九年一一月には桂太郎を抜き、憲政史上最長の在職日数の首相となる。そして、そんな政治的安定性と引き換えに、日本の国力はますます下がっていった。GDPは中国の半分以下となった。団塊ジュニアは子どもを作れない年齢になった。日本の技術が世界を変えるとはだれも信じなくなった。貧困や児童虐待が連日報道され、嫌韓や嫌中のようなヘイトもまかりとおっているが、多くの日本人はそんなことに悩みすらしなくなってしまった。それでも東京五輪を控えて株価だけはあがり、日本はすごい、日本は変われる、日本はまだまだいけるという本ばかりが売れ続けている。

www.bookbang.jp

 

変革を求めて祭りを行なっている間に勝手に自滅していったのが現在の日本であると評してる。私が左派の活動家が自己批判したほうが良いと思うのは、こういう部分もある。互いに足の引っ張り合いを行なっている間に日本社会はどんどん沈没していく。そして必然的に左翼が守りたい社会的弱者もどんどん増えていく。自民党も左派勢力も何も状況を変えれない。自分が小学生の頃から少子化問題は叫ばれていたが社会問題は後回しのままであり日本経済も横ばいであり、何も変わらないまま緩やかに悪化し沈没していく。はじめは靴の底が濡れる程度の浸水が、今や靴下までに届くようになった気分である。じわりじわりと真綿で首を絞めるような速度で浸水は進んでいく。明日は今日よりも悪くなる。そんな時代になってしまっているのだ。

 

colaboの騒動も金周りのいい加減さは左派活動家の伝統であり、またやっているのか、と呆れるばかりである。裁判の結果などもはやどうでもよい。既に政治的に敗北している事柄であり、旧来の方法では市民のマジョリティに嫌われるという事実を自己批判してほしいが、東浩紀氏が指摘するように対話は難しそうに思える。平成の祭りでは数々のデモが行われたが、政治的に成果を残せたものは何一つない。例えばシールズが国会議事堂前で民主主義を問うて当時の首相の安倍晋三氏が変わったのだろうか?いつ頃そうなってしまったのかわからないが、どちらからそうなってしまったのかわからないが、それぞれが勝手に自分たちの主張を行い、対話というものが消滅したのも平成の時代だった。Twitterで左翼活動家が対話を拒否し相手をブロックしている様子を見ていると既視感を覚えてしまう。人間が対話を拒否すると問題解決は不可能になる。ただし、唯一解決方法はある。物理的な暴力である。人類最悪のソリューションである暴力である。昔からデモなんか意味はないと冷笑する人々はいるが、山上徹也氏が放った手製銃の二発の弾丸の政治的効果を見てしまえばデモを笑っていたのは正しかったと思わざるえない。暴力の時代になってしまったのである。国葬も散々批判されたにも関わらず強行された。対話は不可能であると受け取った方も少なくないと思う。銃弾が多く飛ばない静かな内戦、そう表現しても良いかもしれない。

 

00年代の終わり頃か、10年代の始まりごろか忘れてしまったが、いわゆるカルチャー誌の間で経済状況の苦難を乗り越えていくために「サバイブする」というライフハック的な言葉が流行り始めた。90年代にバブルが弾けて世紀末ということで終末論が流行ったが、21世紀に入ってからは世界破滅後にサバイバルを行なっている状況と思い始めている。バベルの塔は弾けてしまい言葉は互いにばらばらになり、意思の疎通は困難になる。問題解決を行いたければ暴力に頼るしかない日本の暗黒時代である。ゲームのFalloutか?

 

危惧しているのは暴力の矛先が社会的弱者に向かうことである。現状でも経済生産性のない人間にはヘイトが溜まっているが、いつそれが爆発してしまうのか。ナチスのT4作戦のような露骨な解決策は取らないと思うが、安楽死政策が実行される可能性はあると思っている。マイルドなT4作戦である。死にたいと思っている社会的弱者も利用できるし、末期患者も使えるようになり、法的な手続きを追えば経済的事情で意思疎通ができない人間を殺せるようになれるかもしれない。そして、自分自身も他人事ではなく、ある種の社会的圧迫により安楽死を選ばされる可能性は十二分にある。その時に旧来の左派活動家及び政治家は適切なソリューションを提示することが出来るのだろうか。今の現状を見る限りではとてもでないが彼らには期待できない。

 

P.S.

 

断っておくと私は対話を好みます。