なつやすみ日記

猫のような日々

デジタルとリアルが融合した第三世界に到達している

 

目端が効く人間ならば何年も前から気づいていることだが、今回の都知事選挙で世界が変容していることに気づいた方も多いだろう。まあ、未だに気づいてない残念な方々も大量にいる。彼らが時代に取り残されて破滅していくのは確定事項だろう。彼らが理解することは今後もないと思うが、変容したことに気づけた幸運な人のためにこの記事を書いている。

 

我々の世界はデジタルとリアルが限りなく融合した世界に到達している。

 

かつて現実社会(リアル)はテレビや新聞社が情報の流通を支配していたが、2024年にテレビや新聞社が情報の流通を支配していると頷くものはいないだろう。もはや動画メディアも文字媒体も何なら漫画雑誌ですら誰でも参入出来る状況になっている。

 

地上波テレビなどのマスコミ4媒体の総額の広告費は31.4%だが、インターネット広告費は45.5%である。 Webのほうが権力を持っている時代なのである。そして、それらの広告は誰でも入稿出来る。差別はされない。テレビ局は選挙の泡沫候補に取材などはしないが、Web広告は選挙の泡沫候補ですら出稿することが出来る。*1

 

引用:株式会社電通「2023年 日本の広告費」報告書 P20 https://www.dentsu.co.jp/knowledge/ad_cost/2023/

 

もちろん選挙期間中に政治家がWeb広告を入稿することは日本の法律では認められていないが、重要な点は広告を出せば効果があるということである。

 

つまり、インフルエンサーYoutubeチャンネルに出演することや支持者が切り抜き動画を拡散することは合法である。そして、それらが非常に効果的に機能し石丸伸二氏を都知事選挙で2位に躍進させた。

 

ただ、SNSのみで票を集めた暇空茜氏や内海聡氏のような人物は泡沫候補の域は拭えない結果であった。それでも暇空茜氏が11万票で内海聡氏が12万票である。テクノロジーの力でポスター貼りや演説活動も少し行えた安野貴博氏は15万票である。

 

デジタル空間だけでも多くの票を集めることは出来るが、選挙で勝てるほどの票は集められていない。石丸氏とデジタル空間のみで票を集めた候補者との違いは地上戦を全力で行ったことである。

 

石丸氏はデジタル空間で獲得した顧客をリアルの演説の場に集めることでエンゲージメントを高めている。それらは投票行動に繋がり、大量に人間が集まることで否が応でもマスコミは報じざる得なくなる。マスコミが報じれば、デジタル空間以外の人間にも認知が届くようになる。

 

これらは現代のインフルエンサーが行なっているビジネスの構造そのままであり、デジタル空間でインプレッションと顧客を獲得し、現実世界のライブイベントで集金をするということである。現実世界に集まったファン達はSNSで投稿をして更なるインプレッションも獲得し、必然的にニュースバリューが発生するためにマスメディアも報じざるえなくなる。

 

また、デジタル空間で認知を獲得する戦略は地域性が強い店舗ビジネスに於いても効果がある。インターネット空間の広告は特定の地域のみをターゲットにするものでないから、日本全国の住民にアプローチしたところで意味がない、と。人間は見えないものは認知できない生物である。大抵の人間は仮説を作る思考もしなければ仮説を検証する実験もしない。

 

一都三県だけで3000万人が住んでいるし、東京都民だけに限れば1400万人である。1億2万人にアプローチしたとしても、4分の1にリーチ出来るし、都民だけに限っても10分の1にリーチが可能である。このような適当な計算でも全体をターゲットにした露出というのは効果があるのは明らかなのだが、露出を獲得する努力をしているローカルビジネスは非常に少ない。2017年ごろに自分が関わっていたとある店舗では「週末は全国からお客さんが来る変な店!」と言われていたが、そのような戦略を取っていたから当然の結果である。もちろん近隣の他県からの顧客は日常的に多かった。

 

一方で蓮舫氏は旧来のオールドメディアや市民団体の活動に寄った戦略であり、デジタル空間で認知を広めて現場に誘導することを怠っていた。マスコミの取材は山のように来る。支持者達は熱狂する。しかし、それらは内向きのメッセージであり、山奥で開催しているロックフェスぐらい限られたユーザーにしか向けられていなかった。第三者から見れば単なる騒音である。警察に通報して騒いでいることを止めさせたくなるようなものでしかない。

 

 

とはいえ3位の蓮舫氏は120万票を集めたし、オールドメディアも勢力が衰えたと言っても広告費の31%も占める巨大な権力であることは間違いない。旧来の権力構造及びエコシステムに近しい立場の文化人が蓮舫氏に投票したことを意思表明していたことが証左となっている。

 

ReHackのライブ配信で成田悠輔氏が「テレビ時代に圧倒的な認知を獲得した芸能人が出馬すれば誰も勝ち目がない」と言っていたように、インターネット広告費がオールドメディアを抜いたと言ってもインプレッションは多数のインフルエンサーに分散されている。かつての時代では当たり前だった誰もが知っている人間を作り出すことも難しくなっている。北野武タモリが出馬すれば、何の選挙だろうと100%勝てるだろう。認知度の世代間格差が発生していると成田氏が主張している。認知度の分散化である。

 

www.youtube.com

 

選挙に於いては認知度がどれだけ広まるかの勝負であるが、デジタル空間をハックして選挙結果すらも操作することが可能になっている。英国のEU離脱も米国のトランプ大統領の当選もデジタル空間をハックして投票行動が操作された結果として起きたのである。

 

そう。ケンブリッジ・アナリティカ事件である。

 

note.com

 

デジタル空間は現実空間の実態に近づいている。なにせインフルエンザの感染予測をデジタル空間の情報だけで推測できるようになっているのだ*2

 

我々の世界はデジタルとリアルが限りなく融合した世界に到達している。

 

そうした現実をケンブリッジ・アナリティカ社は利用して有権者の行動をWeb広告とデータサイエンスの知見でコントロールし、世界中の選挙結果を思うがままに変えてきてしまった。投票行動を変えそうな人間のビックデータを機械学習で分析し、統計的に有意な結果だったセグメントのユーザーに行動が変容する効果がある広告をターゲティング配信するという手法である。*3

 

もちろん、プロパガンダによる大衆の扇動は第二次世界大戦前から行われてきたことだが、重要な点はデジタル空間に転がっている個人のデータの集合体、すなわちビックデータを使って投票行動を変えたことである。データサイエンスの能力と予算さえあればパソコン一台で世界中のどこにいてもプロパガンダによる大衆の煽動が可能になっているということだ*4

 

世間に溢れるグラフィックデザインですらデジタルとリアルが融合したものが目立つようになっている。現実の空間とキャラクターを合わせた表現は日常系のアニメーションで用いられる程度だったが、今や街中に溢れる広告のグラフィックですら現実空間とキャラクターの融合は珍しいものではない。何なら生身の人間ですらエロゲーのような服装をした女の子が街中を歩いている時代である。

 

youtu.be

 

youtu.be

 

要するに哲学者のジャン・ボードリヤールが言うところのハイパーリアルの時代に完全に到達してしまっているわけである。もはや虚構も現実も区別がつかない。

 

ボードリヤールは、シミュレーションの三つのレベルが存在すると説く(『象徴交換と死』)。第一のレベルは現実の明らかなコピー(模造)で、第二のレベルは現実と表象の境界があいまいになるほどよくできたコピー(生産)だ。第三のレベルは現実世界の個別的な部分にまったくもとづかない、コピーそのものの現実を生み出すコピー(シミュレーション)である。

 

いちばん良い例はコンピューター言語やコードによって生成される世界である「ヴァーチャル・リアリティ」だろう。したがって、ヴァーチャル・リアリティは抽象的存在である数学的モデルがつくりだす世界であり、ボードリヤールがハイパーリアルと呼ぶのは〔現実〕世界の構築に先立ってモデルが出現する、この第三レベルのシミュレーションのことだ。

 

引用:リチャード・レイン.2006.ジャン・ボードリヤール (シリーズ現代思想ガイドブック.P55

 

iOSMac OSを利用している人は週間レポートで画面を見ている平均時間の通知が来るだろう。そして、それらを見つめている時間に驚くだろう。私の場合は読書、仕事、友人とのコミュニケーションまで全てをiOSMacで行っているのでこういう結果になる。

 

 

メタバースが来る来ないと世間は騒ぎ立てているが、そもそも我々はデジタル空間の画面ばかりを見ている。とっくのとうにメタバース的な空間に多くの人が親しんでいるのである。

 

もちろんリアルの空間を見ることが出来なくなったわけではないのでデジタル空間から現実のライブイベントに足を運ぶことになる。ライブ空間にいる時間はせいぜい二時間程度である。一日に見ている画面の時間は私の場合で11時間が平均である。私に何かしらの広告を見せたければデジタル空間からリーチしてくるのが最適な選択肢となる。私が興味を持って問い合わせのメッセージを送れば営業マンから連絡が来るだろう。

 

そして、Zoomなどのビデオ会議アプリで打ち合わせを行う。二人とも現実に存在する人間だが、デジタル空間を通じて現実の世界の問題について相談を行う。

 

もちろん現実の出来事がデジタル空間に影響を与えることもあり、それらは相互交流的なものである。いわゆるIoTと呼ばれる装置機器は現実のデータをデジタル空間にフィードバックするものだ。工場内部の機械類の状態をセンシングすることでデータ化し、監視者がコンピュータの画面上でチェックすることでメンテナンスを効率的に行えるようになっている。また、店舗や街中に設置した監視カメラからデータを集めて、消費者の行動を分析するために用いられている。それらは消費者に商品を買ってもらうようにデジタル空間で分析されて最適化された結論を導き出す。ケンブリッジ・アナリティカ社のように悪意はないが、消費者をコントロールするという意味では地続きの技術である。

 

www.nikkei.com

www.itmedia.co.jp

 

2000年代初頭にロボット型検索エンジンGoogle)が登場して以来、人類は欲しいものや解決したいことがあればキーワードを打ち込むようにもなっている。言い換えれば、現実の需要がデータ化されているということであり、需要の測定を可能にしつつあるのだ。そしてそれらはデジタル空間に収納されて誰でも見ることが出来る。デジタル空間から供給を作ることが出来れば、現実の需要は満たされる。

 

もちろんデジタル空間の需要からデジタル空間に供給を通すことも可能だし(オンラインゲーム産業などはこれである)現実の需要を現実の供給が満たすことも相変わらず行われているし、現実の供給がデジタルの需要を満たすこともある(物理的なハードウェアなど)。それらは互いに複雑に絡み合った形で機能しているのだ。現在の経済をこのように作り出されている。

 

しかし、厄介なことにそれらの経済は非常に見え難い。ほとんどの人間には不可視の存在である。

 

冷戦後の世界は大きな物語の終わりと言われた。1992年にフランシス・フクヤマが『歴史の終わり』を上梓し、1997年に文科省はVUCA(目まぐるしく変転する予測困難な状況)の時代を意識するようになり*5、大学は脱工業化社会へと向けた教育を行うために再編ブームとなっていた。1990年開校の慶應大学の湘南藤沢キャンパスなどは典型例である。

 

それらの評価に関しては様々な語り口があるが、Windows95とインターネットの到来により、人類の需要は分散化されていき、検索エンジン上のデータベースに需要が溜まっていき、キーワードに対して適切な供給が出来た事業者は金持ちになっていったことは明確な事実だろう。*6

 

主要マスメディアの広告費は31.7%であり、新聞社やテレビ局などはせいぜい10〜20社程度のチャネルしかないが、広告費が45%のWebは数え切れないほどのチャネルが存在する。全てのチャネルを把握出来る人類は存在しないし、大部分の人間にとっては複雑に絡まり合った雲のような存在としか認識出来ないだろう。認識するにはあまりにも小さすぎるのである。

 

現代思想の世界で大きな物語、そして小さな物語という言説はよく用いられるテーマであるが、2024年になっても大多数の人間は国家や共産主義といった大きな物語から抜け出せていないことは蓮舫氏の態度や支持者を見ていれば火を見るよりも明らかである。そして、今回の選挙で大きな物語に未来がないことに気づいた人も少なくないだろう。

 

オールドメディアには未来がないし、それらに付随していた産業も未来はないだろう。要するに音楽産業や芸能産業や出版産業であり*7*8、それらの主だったマネタイズはテレビCMの多額の出演料であり*9、ライブイベントの出演料や小説やCDの販売ではない。もともとあれらはクロスセルでしかない。テレビ広告の効果が下がっていけば事業会社は誰も広告を出さなくなる。つまり、CMに付随していた産業も滅ぶということになる。既にオールドメディアの一つである雑誌業界は広告主の撤退によって、2010年代に多くの雑誌が休刊や廃刊になっていった*10。広告主がいなければメディアを維持することは不可能なのだ*11

 

一昔前に「新しい時代の生き方をしていこう!自由に生きよう!」というと胡散臭く聞こえたし、今でも詐欺師のキャッチコピーとしては常套手段であるが、詐欺師のキャッチコピーに縋らなければならないほどに不確かで不可視な需要(小さな物語)にそれぞれが旅立っていかなければならない時代に突入しているのかもしれない。

 

もちろん大きな物語のシェア率が今後も下がっていけばの話ではある。私が恐れているのは戦争によって大きな物語復権することであり、大きな物語に縋り付くしかない人達が戦争を起こしかねない世界情勢になりつつあることでもある。人間は物語を求める生き物だ。彼らの不安や怒りの根源は物語を続けられない苦悩からである。

*1:ちなみにWeb広告は1000円程度でも出稿できる。簡単なテストであれば大金は必要はない。驚くべきことに大手企業に勤めている方でも少額で始められることを知らないことが非常に多い。要するに広告代理店に管理を丸投げであり、自社で何一つ運用していないからである。日本企業の縦割り組織構造のデメリットである。

*2:Richard Rogers.2013.Digital Methods.pp23-24

*3:具体的なデータサイエンスを用いたプロモーション技術を勉強したい方は金本拓先生の『基礎から機械学習・時系列解析・因果探索を用いた意思決定のアプローチ)』がオススメです。

*4:ちなみに英国のEU離脱トランプ大統領の当選以外にも世界中で暗躍していたことはドキュメンタリー映画(グレートハック)や書籍(告発 フェイスブックを揺るがした巨大スキャンダル)で明らかになっているが、日本国の政治家からは依頼がなかったことも明らかになっている。まあ、要するに巨額のコンサルタントフィーを支払う金がなかったのである・・・。自民党の裏金のしょぼさに日本の政治家は相対的にクリーンであることが示されてしまっている。なにせ、テッド・クルーズがケンブリッジ・アナリティカ社に払った依頼料は5.8億米ドルである。日本の官邸の機密費ですら約10億円しかない。日本の政治家は逆立ちしたって払えるわけがない。日本全体の政党交付金を全て合わせても315億円しかないのだから。

*5:21世紀を展望した我が国の教育の在り方について https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chuuou/toushin/970606.htm

*6:そして、その支配者であるGoogleMicrosoftFacebookAmazonは神とも言えるような存在になっている。彼らに逆らえばインターネットでのビジネスは途端に行き詰まる

*7:もちろんWeb広告に最適化した音楽や芸能や出版のコンテンツは儲かっている

*8:具体的にはJ-POPやお笑い芸人や紙で印刷された書籍(特に文芸)などである。マネタイズの構造が壊れつつある以上は既存のプレーヤーや会社は生き残れるかもしれないが、現状から参入するメリットはプレーヤー側もマネジメント側も存在しない

*9:そもそもYoutuberやVtuberを観察していれば理解出来ることだが、彼らは案件動画とグッズ販売で利益を出している。ヒカキンはミュージシャンだが同時に広告塔でもある。だから、企業が案件動画を依頼する。なお、Vtuberは自社製品を強化する方針であるのはIRを見ていても明らかである。

*10:そもそも金を払って広告を見せるという邪悪過ぎるビジネスモデルがリクルートのゼクシィ以降の雑誌文化なので滅んだほうが良かった

*11:現状のWebメディアにも言えることであり、ペイウォールメディアに移行していっているのはWeb広告モデルの収益では経営が不可能であることを意味している。フリーミアムモデルの終焉である。

金だけで動く人間ではない

 

自分自身も「報酬の条件が合えば行います」や「金次第」と嘯くように皮肉を言うが、もちろんそれは営利企業としての態度であり、社会を構成する一人の市民の態度ではない。また人類全体を考えたときの一人の人間としての態度表明でもない。

 

もしもあなたが金だけで世界が動いていると考えているのならば手元に持っているスマートフォンを今すぐ投げ捨ててほしい。それらが機能しているのは大多数の無償の貢献によって作られたオープンソースソフトウェアで稼働しているからである。そして、スマートフォンに限ったことではなく大抵のハードウェアやソフトウェアの制御も何かしらのオープンソースソフトウェアが関わっている。もしも金だけで世界が動いていると考えるならば、あなたは電子レンジでレンチンすら出来ないし、自動車で遠くに行くことも出来ないだろう。何なら銀行からお金を引き出すことすらも出来なくなる。

 

自分が無償でとある仕事を行っていたら私のことを気に食わない人物から「無料で仕事をすることは無責任だ」とラーメンハゲのセリフを引用したようなありがたいお言葉を頂いたからである。まあ、以前から脳筋体育会系の人物と思っていたが、ここまでバカとは思わなかったので本気で軽蔑をしている。同時に自分自身の社会への適応力の無さも痛感している。

 

あらゆるテクストは作者の背景とポジションを考えなければならない。ラーメンハゲの場合ならば、作者は元ロッキンオン編集部出身であり、そうした背景を考えれば一連のセリフの意味を理解することが出来る。例えば最も有名なラーメンハゲのインターネットミームである「やつらはラーメンを食っているんじゃない。情報を食っているんだ」は作者が仕事で経験した絶望を示している。資本経済下で音楽を商品化するには非言語的な存在である音楽を言語化しなければ儲けることは決して出来ない。これは文献研究でも明らかになっているが*1、わざわざ論文や書籍を読まなくても言語化によるプロモーションがなければ大衆が良いとすら感じられなくなることは数値で可視化されてしまっていることが現代の良い部分であり残酷な面である。

 

以下のミュージックビデオは1200万回以上再生されているが、バンドが所属事務所から契約を切られたあと(プロモーションが消滅する)は惨憺たる数値に落ち込んでいるのが一目で理解出来る。数百回しか再生されていない動画も珍しくないのである。もはや彼らは商品ではないのである。*2

 

youtu.be

 

要するに、音楽が好きだったから音楽を仕事にしたくてロッキンオンの編集者になったのに、音楽ビジネスの最前線で音楽を誰も聞いていないことに気づいた作者の独白に過ぎないのである。虚像を作り上げるためのロッキンオン名物の3万字インタビューのマーケティング効果を知る。そして、自分自身も情報の影響を受けていたことに。

 

そうした現実を受け止められるのならば作者はロッキンオン編集部を辞めることはなかっただろう。そうしたロックミュージックに対する愛憎はラーメン発見伝でもよく見られるし、前述の「無料で仕事をすることは無責任」もそうであろう。まあ、あこがれ業界の仕事は無償でもやりたいという人は山のようにいる。音楽ライター志望は掃いて捨てるほどいるし、人気雑誌の編集者志望だって腐るほどいる。一方で誰もがやりたくない仕事も山のように存在する。例えば、養護老人ホーム知的障害者施設の仕事はどうだろうか。令和4年6月の2.56倍と求人倍率はトップレベルである。

 

まあ、上記の福祉関係は曲がりなりにも給与が発生しているので例としては不適切かもしれないが、地方自治体の多くは民生委員という仕組みで福祉を担っている側面がある。そして、それらは完全な無償であり、多くの自治体で足らなくなっているのである。

 

www3.nhk.or.jp

 

この人達は無償で仕事をしているが、無責任なのだろうか。ラーメン発見伝の芹沢や発言に影響を受けた人間が彼らに「無料で仕事をすることは無責任」と主張した瞬間に悪罵が飛び交い殴り合いの喧嘩が勃発することは間違いないだろう。まあ、根性と信念があるならば敬虔なキリスト教徒や上座部仏教イスラム教徒の皆様方にも同様の言葉をかけてみてほしい。

 

物語で描かれるストーリーラインは科学的な事実でなければ、社会的な事実でもないことが殆どである。ただ、社会的な側面が表されていることの証左でもある。インターネットミーム化するように大量のコピーが出回るのはそれだけ発言を支持する人間が多いということである。おまけに否定的な文脈ではなく肯定的な文脈で使われている。

 

言い換えれば、報酬が無ければ動けない人間だらけであり、社会のことなんてどうだっていい、他人なんてどうだっていい、自分さえよければいいということである。鈴木宣弘教授の「今だけ、金だけ、自分だけ」という有名な字句が脳裏に浮かぶ。彼らに隣人を愛することはできない。

 

そして、それは量的なデータでも判明していることである。日本人は人助けしないことで世界一であり、寄付金の額もぶっちぎりで低い。

 

www.dlri.co.jp

missionproject.jp

 

前述のオープンソースソフトウェアの貢献の割合も日本人は非常に少ないことで知られているが、まあ、日本の活動家が社会問題を声高に叫んだところで大抵は「政府がなんとかしろ」と他人事のように主張することにも通じている。そして、政府が税金を上げて予算を作れば彼らは増税は止めろと叫ぶ。自分自身でどうにかする気などは一ミリもない。

 

実際に手を動かして社会問題を解決する実際家の湯浅誠さんのような人物は驚くほどに少ない。大抵は無意味なデモを行なって声高に叫んだあとに仲間内で冷たいビールを飲んでスッキリしている人間が大半である。政治的敗北を繰り返すだけのデモを行なっている時間に誰かを助けられなかったのか。

 

まあ、これは左派に限らず右派も中道もほとんどの人間は誰も無償では助けない。口ではあれこれ言うが手を動かす人間は皆無に等しい。

 

税金をたんまり取られているから国家がやれ、スターバックスでコーヒーを買えば貧困層にお金が行き渡る*3、無償の仕事は無責任になる、実際に人間のマンパワーで社会貢献をしないための言い訳作りに必死になれる構造が社会の至るところに存在する。金だけで紛争問題が解決するのならば、諸外国がODAで軍隊を派遣することはないだろう。命を張っている側から見れば「あいつら金しか出さない」と軽蔑の目で見られるわけである。

 

自分自身は思想家のジル・ドゥールズが説明するようなリゾーム的な世界(横断的な関係で結びつく茎のような経済。具体例はインターネット)で生きてきたことが影響に受けているだろうし、母親がカトリックであることも影響を受けているだろう。こうした思考が世間ではマイノリティというのも重々承知しているが、誰かが手を動かさないと解決しない問題が社会のあらゆる場所に山積みになっている。もちろん報酬を支払えるような経済状況ならば支払ったほうがいいし、自分だって報酬は欲しい。繰り返すようだが、金がない人間から金を取ることは正義なのか。教会は有償でしか利用できないのか。全くもってバカバカしい話である。

 

自分に対してありがたい言葉をかけてくれた方は典型的な上下関係で生きるタイプの人間であったので自分のような縦横無尽の複雑な経済観の人間と相容れるわけもないことにも本文を書くことで気づいたのは学んだことであった。今までの人生でも上下関係の脳筋体育会系(自分は下士官や軍曹と分類化している)とは上手くいった試しは一切ない。一般的には上限関係大好きの脳筋体育会系と上手く付き合うのが社会性とは思う(執筆時間60分弱)。

*1:Selling Sounds:The Commercial Revolution in American Music:https://doi.org/10.2307/j.ctvjghxm2

*2:事務所脱退後のクリエイティブがボロボロなのは一目瞭然である。ただ、自分がいつも疑問に思うのはそれらのクリエイティブや案件の獲得も私たちと同じ人間の手によるものであり、彼ら自身がビジネスのフローを作り上げることを諦めてしまっていることである。それらは何か特殊なスキルや大資本が必要なのか?

*3:スターバックスのコーヒーに潜むイデオロギーについて語るジジェク(日本語字幕) - YouTube

アンチ戦後民主主義的、アンチ既得権益が西村博之である。

伊藤昌亮氏が岩波書店論壇誌「世界」で2ちゃんねる西村博之ことひろゆきについて批評した「ひろゆき論」が一部の界隈で話題になっていた。伊藤昌亮氏はひろゆきは「優しいネオリベラリズム」を志向すると分析している。

 

 

 

私も書店で購入して読んでみたが、非常に面白い評論だった。ただし、あまりポジティブな感想ではなく、ネガティブな意味である。ひろゆきの書籍を全て読み込み評論を書いたそうだが、リベラルを自称する方々がひろゆきの何を問題視し、何を嫌い、またひろゆきと同一視している文化人は誰か、ということが書かれていた。自分達のドグマとは反する概念を書籍から抜き出しており、逆説的にリベラル側の言説として機能する詩のような評論になっている。自分達が如何に支持されなくなってきているか、ということが書かれてる評論でもあるということだ。

 

特に「優しいネオリベラリズム」という言葉は、ひろゆきを表す言葉としては的を得た主張になっているが、オールド左翼から酷い目にあった当事者からすれば「適当なこと言ってんじゃねえ!死ね!オールド左翼!」と中指を突き立てながら叫びたくなった。

 

それはなぜか?

 

リベラリズムは社会正義や社会校正を標榜するが目の前の被害者は救済しなかったからである。

 

伊藤氏はリベラルとひろゆきのフォロワーとの弱者観の違いについて語っているのだが、リベラルの「弱者リスト」には、高齢者、障害者、LGBT、外国人、女性などがあげられている。

 

ひろゆきのフォロワーは、コミュ障、ひきこもり、生活保護の大人、子供部屋おじさん、ニートうつ病の人などが上げられている。

 

これが両者の弱者観の違いであると伊藤氏は論じている。

 

評論では、なぜダメな人がネオリベラリズムに染まっていくのか書かれていくわけだが、単純な疑問が発生する。なぜリベラルは弱者を助けなかったのか?何ならば左翼の既得権益の組織で発生した弱者を放置してきた結果ではないか?と指摘しておく。

 

2ちゃんねるで2007年の11月に投稿された「ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない」という物語がある。ノンフィクションかフィクションかはわからないがネットロアの類であり、漫画化や映画化にもなった有名な作品である。

 

この作品の設定が日本の戦後民主主義において左翼が無視してきた弱者の全てを物語っている。

数年前、いじめにより高校中退で中卒、しかも10年近くのニート歴を持つ主人公は、母親の事故死を転機に就職を決意した。

そこで主人公は、中学時代の友人に基礎を教えてもらいながら基本情報技術者試験で国家資格を取る事にし、合格点ぎりぎりでの合格を果たし、その後数十社書類選考で落とされながら一つの企業に採用された。

しかしその会社はいわゆる「ブラック企業」で、入社当日から残業(勿論夜通しのサービス残業)が出るほどの過酷な仕事を言い渡された。周囲の人物と言えば無能な癖して部下達に仕事を押し付ける傲慢且つ独裁的な上司の「リーダー」に、リーダー同様仕事も出来無い上とんでもなく空気の読めずお調子者で且つ仕事そっちのけでガンダムシリーズに興じてばかりの能天気な「井出」、そして実力はあるが何もしゃべれずリーダーにいじめられ続ける気弱な「上原」。さらにはめちゃくちゃな納期を押し付けてくる取引先。当初からまともに会話ができるのは会社の「社長」と社内で一番仕事のできる「藤田」のみであった。

入社直後の苦境を乗り越えた主人公は社長の提案で入社2週間目にしてあるプロジェクトのリーダーに抜擢される。派遣社員の「中西」という女性も入って主人公はリーダーの辛さを思い知らされることに。そんな新入社員に対する軽い嫌がらせが続く中、藤田は常に主人公を支え続け、主人公も藤田を神のように尊敬していた。

その後主人公の受け持ったプロジェクトも成功し、入社1年も経たぬうちに何とか実力を認めてもらえることとなった。だが、プロジェクト終了からあまり時間の経たないうちに上原が精神科に入院してしまう。

さらに追い打ちをかけるように「中卒である」という主人公の学歴が社内でバレてしまい、リーダー達から罵声を浴びせられた。この「学歴事件」で彼は精神的ショックを受けて、退職を決意する。しかし、この学歴事件は、藤田が主人公を「辞めさせない」ための狙いでもあった。これを機に主人公は、自分とは両極端ながらも、どこか自分と似通った、藤田の壮絶な過去を知る。

https://ja.wikipedia.org/wiki/ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない

 

学校の教職員の組合は諸派あれど基本的には左派である。しかし、現在でも問題になるように学校の先生は生徒がいじめられても助けてはくれない。いじめが原因でひきこもりになっても、誰も助けてはくれない。取ってつけたように行政は相談の窓口を用意するだけであり、本質的な解決は自助努力で解決するしかない。誰もが知るようにキャリアに欠陥がある人間の就職活動は困難に直面する。そして弱者が仕事を得れたとしてもブラック企業という地獄が待ち受けている。日本には左派の支持基盤の一つである労働組合や労基が存在するが、ブラック企業から労働者を守ってくれない。そしてブラック企業は人間の心を壊し精神科送りにする。病気になっても労働組合は守ってくれない。育児休暇を取得したら人事評価がマイナス、下手すれば解雇になる。私事だが小さい子供のために時短勤務を続けていた実姉は懲罰人事を受けて辞職することになった。なお某インフラ系企業で労働組合は強い会社であるにも関わらずだ。

 

リベラルが現実の目の前の弱者を助けたことはあったのだろうか?

 

私自身も学校ではいじめられたが誰も助けてくれなかったし、就活失敗、そして発達障害発覚、事実上の就労不可という地獄を見ているのだが、行政の支援は相談窓口の設置といった碌でも無いものしかなかったし、就労面でも希望があるような話は何もなかった。自分自身も左派文化人が好む文化や教養で育ってきたこともあって、取ってつけたように自己責任には反対と言っていたが、実際に福祉の狭間に落とされると絶望と憎悪が湧いてくる。対策として取ってつけたような予算をアウトソーシング先の雇用に使われるが、自分には一円も降ってこない。もちろん予算は微々たるもので当事者全員分としたら一人当たり数百円程度だろうが、それでも憎悪の矛先にはなる。

 

そして国会や街角で実被害がありもしない空虚な問題についてリベラルがアジテーションをしている。教職員が戦争の悲惨さを問うが、現実の目の前のいじめの被害者は助けようとしない。欺瞞そのものである。おまけに科学的な改善策などは学者から提案されているが導入されることはない。

 

そういったことは日本中の至る所で起きている、知的障害者施設では暴行事件が日常的に発生し、何ならば大量に殺されるという事件も起きるが、本質的な対策が取られることはない。空虚な言葉で「優生思想をいけない!」と叫ぶだけだ。また友人が知的障害者施設で勤務しているが、役所からコンプライアンスの強化についてのお触れ書きが送られてくるが、指導に従うインセンティブはゼロである。要するに現場が疲弊するだけである。そして友人も当然ながら知的障害者から暴力を振るわれているが、友人が知的障害者に暴力を振るうことは許されれない。インターネットでオタクがよく引用するパトレイバー2のセリフを突きつけたくなる。

 

「戦線から遠のくと楽観主義が現実に取って代る。 そして最高意志決定の段階では、現実なるものはしばしば存在しない。 戦争に負けている時は特にそうだ。」

ジェイムズ・ダニガンの『戦争のテクノロジー

 

そもそもネオリベラリズムの定義が出来る人間はいない。市場規制派や市場規制緩和派、もしくは大きな政府、小さな政府などの政治的な志向を指すと思うが、市場規制派であり小さな政府も成立するし、大きな政府志向で市場緩和派も成立する。そして、日本の第一産業のように規制が守られてことで資本である農地が放棄されて問題視されているが、規制は緩和しなくて良いのだろうか?都市部の不動産の高騰化は規制しなくて良いのだろうか?

はっきり言ってリベラルによる党派性の違いによるレッテル付けの悪口でしかなく、あの竹中平蔵ですらネオリベではないと否定している。

 

閑話休題

 

00年代の2ちゃんねるの空気感の平均化がひろゆきであり、あの当時の空気感を引きずったまま発言をしているように思える。つまり、ひろゆきはアンチ戦後民主主義であり、アンチ既得権益である。何もわかっていない文化人が2ちゃんねるに対して「便所の落書き」や「ネット右翼の巣窟」と言った表現をしてきたが、実態は異なる。リベラルも含めた様々な属性の人が集まっていた。ただ、彼らが蛇蝎していたのは戦後民主主義が作り出した日本の様々な欺瞞であり、欺瞞について語る場所でもあった。だから、統一教会の政治的なポジションと搾取行為に不満があり安倍晋三のことを安倍壺三と中傷するロマン優光ひろゆき統一教会についての悪口は「単なる勝ち馬に乗っているだけ」と評していたが、大昔から統一教会の悪口が書かれていたのはネラーには常識であった。そして右翼が安倍晋三の悪口を言えるだろうか?当時の2ちゃんねるは様々な党派性を持つ人々が欺瞞について語る場所であった。

 

そもそも何十万人も利用する掲示板のユーザーの党派性が一つと考えるほうが異常である。

 

以下の匿名ダイアリーの投稿の文章は当時の空気感を表すものとしては名文である。映画ファイトクラブのタイラーの演説的な雰囲気すらある。全文を読んで欲しいが、一文だけ引用すると最後の文章が非常に示唆的である。

**当事者としては90年代後半の青春時代はクソ

マスメディアも嫌いで嫌いで滅茶苦茶叩いて疑ってネットを伸ばした。

テレビも新聞も雑誌も当時の支配力と比べりゃ見る影もない。

まだ力あるじゃんて思う人は往時の力を知らないか忘れてる。

24時間テレビでゴミ拾いする予定地をネット有志が先にきれいにしてやったりね。

当時はあらゆることがメディアの陳腐なセンスと加工で覆われてたから

ああやって風穴を開けることに意味があったんだ。

今の若い人に意味が伝わらなければ社会はそれだけよくなったってことさ。

貧しくなってることはかわいそうだと思うけど社会の空気はましになってるような気がする。

腐れメディアと団塊とバブルの屑どもの掃討がおれら世代に最後にのこった下世代への責務だと思ってる。

どうせ俺らが老いる頃は福祉も減って今ほど長生きせずに害になる期間少なく消えていくだろう。

https://megalodon.jp/2022-0610-2040-40/https://anond.hatelabo.jp:443/20220607141101

 

 

2ちゃんねるの運動の成果として、オールドメディアによる押し付け的な価値観は終焉を迎えた。恋愛は推し活に置き換わり、クリスマスはカップルで過ごす日ではなく単なる販促イベントになり、ファッションはファストファションが市場を駆逐し、月9を見る義務は消滅し、特定の活動家に忖度した偏向報道も減少した。

 

もちろんスマートフォンの普及などテクノロジーの進化が2ちゃんねる的な価値観を後押したが、オールドメディアによる欺瞞に対するカウンターとして機能していたのは事実であろう。

 

ひろゆきは右派左派関わらず戦後民主主義社会に生まれた欺瞞や既得権益に対して喧嘩を売り続ける・要するに一人で2ちゃんねるの総体を表現しているように見えてしまう。

 

00年代の2chの管理人のひろゆきをタラコ野郎とネラーは罵っていたが、掲示板でのコミュニケーションには思い入れがある。現在の大衆にとってひろゆき自体が掲示板であり、自分自身の不満を代弁してくれる人として認識しているのならば、彼の好感度が大衆の間で上がっていくのも理解出来る。一種のアンチヒーローとして機能しているのだろう。

 

もちろんひろゆきがクソ野郎なのはネラーの共通見解である。2ちゃんねるの平均化、戦後民主主義既得権益に対するアンチという表現はしたが、主張に関しては同意出来ることもあれば出来ないこともあるし、複雑な現実を簡単に言い切るのは大衆をバカにしていく装置でもある。ただ、あの独特の言い回しのリズムが魅力なのだが、同時に矛を向けられた側は殺意を覚えるほどに腸が煮え返るのもまた事実であろう。要するに彼はラッパーである。無意味に他人と対立を繰り返すラッパー。故に意見が真逆になっても彼のフォロワーは喜ぶと思う。発言の内容に意味はない。*1

 

ただ、リベラルが助けてこなかった人間に手を差し伸べているのも事実だろう

 

よって、伊藤昌亮氏の評論の最後にひろゆきネオリベラリズムにどう対抗していけばいいか?と書かれていたが、理念や綺麗事の前に目の前の弱者を助けていくことが肝要と思われる。

 

もちろんイジメ問題や労働問題に関しても00年代に比べると現在は改善が行われてきている。

 

労働組合が存在しない会社の労働問題については、2014年に総合サポートユニオンが出来ている。学校に関してはN予備校などの集団生活が苦手な人でもインターネットを通じて学べる通信高校が新たに誕生している。

 

前者に関しては、反貧困ネットワーク湯浅誠氏から派生したプロジェクトであり、代表者はどちらも80年代生まれの若手である。後者に関してはリベラルが嫌う2ちゃんねるの影響が強い会社から派生した事業であるが、資本を用いてWebシステムの構築を行い通常の学校教育が合わない子のための代替策を提案している。

 

課題解決の方法として様々な方法があると思うが、世の中が資本で回っている以上は資本を獲得しなければ目的の達成は出来ないだろう。古典的な話をしまえば日本赤軍の資金はあまりにもしょぼかったが、オウム真理教は様々な事業を行い軍用兵器の調達に成功していた事実がある。というか、世界中の反政府組織を何らかの形で事業を行い資金調達を行なっているのは明らかであり、伝統的に日本の左派が金儲けに忌避していたことを止めるべきと思っている。

 

そもそもリベラルの思想の源流であるマルクス主義では科学技術を持って資本主義を是正することが理念である。ソ連も圧倒的なビジョンと科学技術力で経済成長を続けていた歴史的事実がある。

 

しかし、現在のリベラルの人たちは金儲けが嫌いだし、何なら科学技術も嫌いだし、リベラルの主流派を観察していると脱成長と環境保護主義的な側面に流れてしまっている。もちろん旧来のドグマの影響もあるのだが、ソ連社会が目指していたような圧倒的な科学技術力や経済の力で世の中を改善する意思をまるで感じられない。

 

むしろ、スタートアップ企業がテクノロジーと金融の力で社会課題を解決する!と標榜するほうがソ連的な社会主義の正義に近いと思えてしまうほどだ。*2

 

リベラルが社会正義、社会公正を行いたいと思うのならば、政治的な政策や規制も重要とは思うが、目の前の人間を助けるために金の問題から逃げないことが重要と思っている。

 

*1:よって彼に反論することは意味がない。彼の手のひらで踊っているだけである。彼に対抗するのは同じリズム芸で抵抗することである。つまり、ラップバトルである。インプレッションとフォロワーを増やしていけっ!!!ということである。朝倉未来のブレイキングバッドが流行るわけですよ・・・。あれも喧嘩の掛け合いを真面目に見ているものはいない(笑)

*2:そして、実際に世間ではほとんど知られていないが技能実習生の奴隷問題も株式会社おてつたびというスタートアップのサービスのおかげで一部の農家が技能実習生を入れずに済んでいる。

小さな物語と小さな政治活動と小さな生活のススメ

政治活動の最終的な出口は生活を変えることである。よって市民革命以後の活動家達は生活を変えるために共産主義など様々な大きなイデオロギーを持った勢力が、政府(民主主義で資本主義国家)という大きなイデオロギーに正面衝突していき勝者が法律や経済を変えてきた。

 

市民革命以後の近代というのは戦争の時代と言い換えても間違ってはいないだろう。それは人権や平等や民主的選挙制度などを持った資本主義国家が、自国の経済を保つために他国を侵略したり、資本主義国家のカウンターとして共産主義国家社会主義が生まれて戦争や虐殺が起きた。何にせよ近代的なイデオロギーが引き起こしたものであり、現代思想の用語で言えば「大きな物語」であり、それに「大きな物語」で対抗し、急進的に社会変革を迫れば大量の人間が物理的な暴力に晒されることは歴史上明らかである。

 

現在、所謂、リベラリスト*1と揶揄される方々も同じような「大きな物語」のイデオロギーを持ったグループであり、政府による法規制で社会の変革を試みている。

 

しかし、法規制で政府が圧力をかけたところで人々の心の有り様が変化するのだろうか?ソ連イスラム教を弾圧し存在しないことにしたが、ソ連崩壊後にイスラム教は復活した。よく知られているように安土桃山時代から日本でもキリスト教の弾圧は行われたが、明治政府がキリスト教を解禁するまでひっそりと隠れキリシタンは生き残ってきた。根本的に圧力で心を支配することなど不可能であり、何なら反発や反動*2、反乱行為を招く結果になるだけである。そして、反乱行為を抑え込むために軍隊や警察が動員され人間が物理的に傷ついていく。右派にせよ、左派にせよ、近代的なイデオロギーに支配された人間は暴力性を孕んだ存在であり、例えば、西洋的な市民革命後の価値観(人権、民主主義、資本主義)と異なる国や地域に急進的に幾度となく迫っために、大量の人間が暴力に晒され傷つき社会が分断されてしまった歴史がある。私たちから見て人権が蹂躙されている社会だからと言って変革を急進的に迫り彼らが犠牲になっていいわけはない。

 

結局のところ、暴力を使わずに社会変革を行い、**人々の生活を変えるには、まずは自分の生活を変えるしか方法はない。あらゆる政治的課題、社会問題、文化的問題、気に食わないことがあれば政府など大きなイデオロギーは無視してしまい自ら実践して理想の生活をしてしまえば良いのだ。そして、仲間が欲しければ思想を伝えるためのデザインを考え、誰かを攻撃などせずに、1人ずつ仲間を増やして同じ生活をするものを拡大して行けばいいのである。**これが現代思想でいうところの「小さな物語」の作り方である。ポストモダニストと言っても良い。脱近代的なイデオロギーの思想である。現代思想的には記号を脱構築し再構築するとも言えるだろう。

 

残念ながら、小さな物語というのは大きな物語と比べて目立つ存在ではない。よって、社会に分散して存在しているのが実情ではある。

 

例えば、日本の労働社会に嫌気が差したならば、日本一のニートを名乗り、働きたくないダメ人間やギークを集めてシェアハウスで擬似家族的な共同生活を行い、インターネット上からカンパや物資を募り、働かずにダラダラと好きなように生きていくことを実践したpha氏はポストモダニズム的な政治活動家と言えるだろう。和歌山の限界集落で集団生活をする山奥ニートの葉梨氏などのフォロワーも生み出し、限界集落で子供が生まれ様々な大人に囲まれながら子育てが行われているそうだ。これは小さな革命である。核家族的な社会に対するアンチテーゼであり、全国的に消滅寸前の限界集落の人口増加であるし、そもそもの出発点で言えば、満員電車に乗って会社に行ってストレスを溜めなくても代替手段はあるというメッセージであった。ただ、pha氏は誰も攻撃していないし、本人が働きたくないから働かなかっただけであり、日本社会という大きな物語に対しては何も言及していない。つまり、大きな物語と対決しないことが小さな物語を作る上で重要なのである。

 

国外で言えば、ケニアでは女性だけの村を作り、女性だけで自活しているコミュニティがある。FGM(female genital mutilation、女性器切除手術)は世界中の人権活動家から非難され続けている問題だが、内政干渉であるし、宗教的、文化的背景を理由に説得するのが難しいのも実情である。前述したように圧力で無理矢理に押さえつけたところで人間の心のありようはそうそう変わるものではない。そうなると女性達が勝手にFGMの暴力から逃げるために生活を変えてしまうほうが手っ取り早いのである。ケニア人の解決方法は、女性達同士でしか住まないことであったのである。

 

courrier.jp

 

何度も言うが、大きな物語と正面衝突を起こしても死人が出るだけで何にも良いことはない。それならば、女性だけが住むコミュニティを作り、女性だけの金儲けの仕組みを作り、女性だけの福祉を作り、生活をデザインしていけばいい。少しづつでも拡大していけば時間が経つにつれ我々が主流派になるのだ。

 

ただし、現実的には社会問題や政治問題にあれこれ言うことしかできないし、生活を変える勇気など欠片もないのが大衆のマジョリティであろう。**他人の心のありようを変えるのが難しいように、自分の心のありようも変えるのは難しいのである。**よって近代主義者同士の争いは今後も続くのであろう。私たち戦争大好き!!!!!!

 

www.youtube.com

*1:あれは社会自由主義者であり、本来のリベラリスト自由主義者とは異なる思想

*2:社会学で言うところのバックラッシュ

障害者のキャリアについて

結論から書く。真っ当な給与を得たいのならば高級ホワイトカラーになるか、独立の二択になる。

 

まず、私も発達障害当事者である。

 

まず大前提として企業は仕事が出来る人間が欲しい。仕事が出来れば高校生だろうと老人だろうと外国人だろうが犬だろうが拘ってはいない。宇宙開発スタートアップがロケットを宇宙まで飛ばすためにエンジニアを必要とするならば、アスペルガーだろうが、英語が話せないアジア人だろうが、「宇宙までロケットを飛ばしたい」という課題解決をしてくれる人間ならば誰だって欲しいのである。

 

東京大学の学生にASDが多いという実しやかに囁かれている噂がある。大学教授や医師に変人が多いという偏見の類ではあるが、卒業後に食いっぱぐれることが少ないのは紛れもない事実であろう。

www.j-cast.com

 

要するに医師免許を持っていれば、発達障害だろうがアルバイトで時給1万円以上の収入を得ることが出来るからだ。コミュニケーション能力が壊滅的でも仕事を得れる経済状況であるのだ。現実の病院でも臨床が無茶苦茶な医師に出会うことは珍しくないのは、当直明けに都市圏から地方の病院に出張させられるという激務が一般市民に知れ渡っているように、それだけ医師が市場的に少ない存在とも言えるからだ(医師が足りていれば無理な労働をさせる必要がない)。

 

一方で日本全体の労働者の数は年々増加している。ニュースでは人手不足が叫ばれているが、実際のところは人材の過剰供給気味であると感じている。要するに誰も給与が低く休みが少なく福利厚生も少ない中小零細企業に行きたくないからだ。そして大学生の数も年々増加気味である。大企業ホワイトカラーの少ない椅子を争う人々でいっぱいということである。

 

https://univpressnews.com/2020/06/12/post-5726/

https://shukatu-man.hatenablog.com/entry/syukatu-magnification-of-large-enterprises

要するに何もスキルを持たない普通の人々(定型発達)はコモディティ化しているのである。有り体に言ってしまえばほとんどが替えが効く人材であり、市場的に余った存在でしかないのだ。会社の仕事は大別するとビジネスサイド、開発サイド、オペレーションサイドに分けることが出来るが、オペレーションサイドの人間が一番余っているのが日本の状況である。だから、健常者ですら人材市場で買い叩かれている。なおオペレーションサイドが一番コミュニケーション能力が必要であり(逆に言えばコミュニケーション能力さえあれば良い)、発達障害者には最も苦手な仕事であると私は睨んでいる。

 

そう考えると企業側から見たときに開発も出来ないビジネスも出来ない発達障害者を雇うメリットはない上に、会社のマネジメントを変えるメリットにもならない。もしも本当の意味で人間が足りてなければ学者や行政が提唱するソーシャルインクルージョンも成り立つが、人間が余っている市場環境で社会包摂するインセンティブは存在しようがない。

 

だから、法律で障害者の法定雇用率を義務づけても農園に送りつけて農園で採れた作物を障害者本人が消費するという脱法スキームが作られるはめになる。土や野菜に触れられて精神の健康に良いというコピーライティングには吐き気がする。私は農福とか考えた人間は地獄に落ちれば良いと思っている。これに真っ当なエビデンスはあるのだろうか?詳しい方は教えて欲しい。おそらく精神疾患作業療法技術の影響と推測しているが、発達障害知的障害者にセラピーは必要はない。病人ではない人間に薬を飲ませて何になるか?

 

nordot.app

plus.spool.co.jp

 

もうお気づきと思うが、要するに物を作れる側に回るか、物を売れる側に回るのが無難な戦略となる。これはハイクラス転職サイトのビズリーチなどを見ているとはっきりとわかるが、単なるオペレーションの仕事で高いバリューの求人がないことに気づくだろう。あったとしても会計士や税理士の資格を求められるCFOやビジネスサイドに近い人事責任者などで人材市場的には貴重な類の求人であることに気づくだろう。

 

www.bizreach.jp

 

発達障害者は天才が多い!という俗説があるが、人材市場的に貴重な存在でなければ、B型作業所で時給100円の生活になり、運が良く大企業の障害者採用に受かっても農園送りにされて月給13万円で社会的に生殺しにされるわけである。

 

そして、そういうゲームを認めたくないとなれば、独立、起業、フリーランスという道になる。つまり、発達障害者に中所得という道は存在しないのである。高所得か超低所得の二択しか存在しない。

 

発達障害者は異常な人生を楽しんで生きていきましょう(雑)。

左翼活動家の態度にはうんざりという話

当方自営業なので、批評的な文章を書いている暇があれば事業資料を作っているほうが金にもなるし、世の中に対して建設的ではあるが、colaboの騒動を見ているとうんざりした気持ちになり様々な思考を巡らせてしまったがために本稿を書いている。

 

まず自分のポジションを明らかにする。colaboの仁藤氏とは同世代である。また自分自身は人文学部出身であり文化人類学社会学現代思想を学んでいた。要するに左派としてレッテルを貼られるような立場である。

 

そして本題だが、何がうんざりかと言えば日本の右派も左派も思想的にはねじれた存在であり、戦後以降は互いにマッチポンプとして存在していたことである。内田樹氏が以下のURLで如何に日本の活動家がねじれた存在であるか説明している。例えば、外国の基地が自国にあることを容認する右派は日本にしか存在しないことを指摘している。

 

blog.tatsuru.com

 

上記のURLでは自民党について語っているが、日本の左派の側もねじれを抱えている。もちろん左派は明確な統治構造を持たないために分派が数多く存在する。キリスト教カトリックは一つしかないが、プロテスタントは様々な宗派があるようにレッテル張りとして「共産党!」「左翼!」と一様に語るのは難しい側面がある。その上で私の意見を見てほしい。

 

彼らは自由や民主主義や人権を声高く主張することである。これがねじれである。

 

なお旧東側諸国は、自由も民主主義も人権は存在しない。そもそも人権とはヨーロッパで市民革命以後に出来た概念であり、共産主義の言葉を使えばブルジョワジー革命以後に出来た概念である。

 

現在の日本でも左翼とレッテル張りされる人々が声高く主張する人権とは多くの欺瞞を抱えたものである。例えば、日本人の大半の人間が利回りのみで生活できるような財産などないが、財産の保障が人権の一つである。大半の人間は自分の労働力を企業に提供してお金を稼ぐしかないにも関わらず財産とは一体何なのだろうか。

 

職業選択の自由というのがあるが、自らの意思で好みの職につけている人間が日本にどれだけいるだろうか?学問の自由というのもあるが、私のように社会的に全く必要とされていない経済的価値が低い学問を学んでも就職活動においては評価されない。誰もが小さい頃から教師に「将来何になりたいか?」と問われる。果たしてこの文化がいつはじまったかはわからないが、少なくとも職業選択の自由という意味で問いているのは間違いないだろう。しかし、本人が望んでいるからと言え将来的に金が稼げそうにもない学問にも関わらず借金(奨学金)をさせて学べることが正しいのだろうか?

 

人権の包括的権利として生命・自由・幸福追求権や法の下の平等があるが、知的障害者にも適用される。しかし、知的障害者が他人に暴力を振るってもお咎めなしである。一方で健常者が知的障害者に暴力を振るうと警察沙汰である。友人が知的障害者施設で働き始めてから「植松聖の気持ちがよくわかった」と言っていたのが印象的である。もちろんそういった施設の管理者は障害者の権利には煩くても労働者の感情には無配慮であることが散見される。

 

上記のようなことを記述すると左翼的な方々が反射神経的に「優生思想だ!!!」と騒ぎ立てるが、そもそもとして市民革命後、つまり近代国家で、更に言ってしまえば自由や民主主義や人権を実際に規定したドイツ共和国のヴァイマル憲法が生み出した問題は現代社会においても何一つ解決出来ていない。ただ単に臭いものに蓋をしているのが現実である。だから、戦後から約80年経っても反ユダヤ主義反知性主義反自由主義も優生思想も何度押し込めても墓場からゾンビのように復活する。

 

障害者福祉の撤廃を促すナチス優生学のポスター(1938年頃)「60.000ライヒスマルク。これがこの遺伝性疾患者の生涯に民族共同体が負うコストです。同志よ、これはあなたのお金ですよ。」引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/生きるに値しない命

 

知っている方も多いと思うが、ナチスユダヤ人だけを虐殺したのではない。国家のお荷物になる生産性のない人間を虐殺していったのである。前述の知的障害者はもちろんのこと、精神障害者などの労働不能者及び拒否者なども含まれていた。悪名高いガス室で大量に殺害をした。要するに福祉の負担になる人間は国家から効率的に科学的で工業的な手段で「削除」したのである。人権の保障をされた、福祉の対象であるために殺されたのだ。またガス室という科学的で工業的な手段も資本主義社会でないと実行できないものである。

 

昨今の日本社会を見返して見ればご理解いただけるように、福祉の負担になっているだけの経済生産性のない高齢者の批判で溢れかえっている。植松聖は知的障害者は生きていても価値がないために殺害した。杉田水脈議員がLGBTは生産性がないと言った。

 

生活保護者に対する批判も絶えることはない。彼らには経済的生産性がない。故に国家が「健康で文化的な最低限度の生活」を保障する。もしも保障など無ければ非難もされないのであるが、その場合は路上に大量のホームレスが溢れかえるようになる。ちなみに産業革命後にスラムのルポルタージュが様々書かれているので興味のある人は読んでみてほしい。

 

企業の生産性の足を引っ張りそうな発達障害者は特殊な就職試験で発達障害と見抜き排除し、生産性のない彼らは国家のお荷物になる。そして普通の人間から憎悪の対象を向けられることになる。なお私自身も発達障害であるので他人事ではない。

 

そしてナチスソ連のような社会主義国家も自由と民主主義を標榜する資本主義国家が誕生した故に発生しているということだ。もともとカール・マルクスは人類の理想国家である共産主義国家は段階を通じて発展していくと主張した。要するに欺瞞に溢れた不完全である自由と民主主義の資本主義国家から誰もが幸福になれるようなユートピアにいずれ到達すると信じられていたわけである。よって、資本主義国家の発展形であるナチスソ連のような国家も自由も民主主義も人権も否定するような国家になっている。

 

歴史は繰り返す。今もたいして変わっていない。人権があるが故に、福祉があるが故に、生産性のない社会的弱者は憎悪の矛先となる。

 

本題に戻るが、日本の左翼が声高く主張する人権は一体何なのだろうか。もちろんそれは分派によって異なるが、女性の権利、在日韓国人の権利、同和部落の権利、沖縄人の権利、労働者の権利、こどもの権利・・・など様々なものがある。colaboの件に関して言えば、家出少女の権利や女性の権利などが該当すると思うが、人権を主張する割には家出少女をオルグして辺野古基地問題に連れていくなど個人の思想信条の自由を思いっきり侵している。またよく炎上するように人権の一つである表現の自由に関しても強く干渉する。歴史を辿ればわかるように、そもそも人権や自由を否定するような立場であるので当然と言えば当然である。これが日本の左翼のねじれである。正々堂々と暴力革命で全ての権力を簒奪し独裁国家として好きなように作り直すと言ってくれたほうが筋道は立っているのであるが、現実には左派の多くが自由や民主主義や人権を主張するのが日本の政治状況である。

 

一方で自由民主党が提示する憲法改正草案からわかるように彼らが自由や民主主義や人権を守っている立場であるかと言えば微妙である。自民党ロビー団体明治憲法を復活させようと試みる日本会議などがいるからである。党名が自由で民主主義を標榜する名前であるが、政治的思惑は真逆である。これもねじれである。

 

日本国においては右派も左派も本質的な部分で自由や民主主義や人権などを守る思想的背景が存在しない。ねじれた存在同士が綱引きをし合って自由や民主主義や人権などを保っている状態である。そして、しばしば一般市民に対して嫌がらせとしか思えないことを行うので都市圏の市民には両方とも蛇蝎の如く嫌われれているのが共通の感覚であろう。自民党に関しては政治と金、そして昨今騒がせているように普通の市民感覚からしたら到底理解できないようなカルト宗教や大日本帝国憲法復活を目指すロビー団体との付き合いがある。それを追求する左派も同じような問題を抱えていて、例えば行政や大企業などの大きい組織に必ず存在する労働組合などは社員から会費を徴収し集まった金で誕生してしまったのが労働貴族である。働かないで組合運動しかしていないが大金を所有している人間である。これに悪感情を抱かない市民はいない。

 

もともと政治的に連動して福祉活動を行う左派活動家は上記のような乞食根性で行うのが伝統であり、colaboの件しかり藤田孝典氏しかりある意味で伝統的な左派活動家の行為と言える。だから昔から市民のマジョリティーからは嫌われている。構造的には今に始まった話ではない。労働者を守る側の左派にも関わらず労働者から搾取すると発言するのもねじれである。

 

右派も左派もいくらでも悪口は書けるが、両方蛇蝎の如く嫌悪しているのが市民のマジョリティである。そこに目をつけたのが外資コンサルタント会社マッキンゼー上山信一氏であり、中央集権に対しても強く不満を持っていた関西圏で大阪維新の会を立ち上げて成功することになる。東京においても小池百合子氏が同じことを実行するが中途半端な結果になってしまっている。しかし、都民ファーストが大勝利した構図は大阪維新の会と基本的には同じである。

 

個人的にとてもうんざりするのは、市民から嫌われているにも関わらず内省せずに突き進む一部の左派の方々であり、彼らの言葉を使えば自己批判すべき状況と思うが、そのような様子は一切見受けられない。そして赤い貴族労働貴族問題が令和になっても発生するとは思っていなかった。総括しないのか?

 

ねじれた存在同士が綱引きをし合っているのが日本の政治状況と書いたが、東浩紀氏が令和になった節目に「平成という病」という記事を発表している。

 

それはつぎのようにいいかえることもできる。平成は祭りの時代だった。平成はすべてを祭りに還元し、祭りさえやっていれば社会は変わると勘違いをし、そして疲弊して自滅した時代だった。 その性格は政治にはっきりと現れている。平成はじつは活力に溢れた時代だった。平成ほど「変革」「改革」が唱えられた時代はない。平成は、盛田昭夫石原慎太郎の『「NO」と言える日本』の出版と同時に始まっている。昭和の終わりは冷戦の終わりと重なっていた。平成の始まりは世界秩序の転換期の始まりであり、多くのひとが改革を夢見ることができた。

-中略-

けれどもその楽観は長くは続かなかった。そもそもそのような「改革」はすぐに効果が出るものでもなかった。一九九七年をピークに、平均給与は下がり始めた(国税庁調査)。生活はいっこうに楽にならず、人々は長引く不況に疲れていった。格差が話題になり、ニートワーキングプアといった言葉が流行語になった。そして日本の競争力は坂を転がるように落ちていった。九〇年代半ばにはアメリカの名目GDPは日本の一・五倍ほどだったが、一〇年後にはその差は三倍にまで広がってしまった(ちなみに本稿執筆の時点では差は四倍以上に開いている)。日本人はようやく、だんだんと、もしかしてこの国はダメなのではないかと思い始めた。

-中略—

安倍晋三は二〇一九年一一月には桂太郎を抜き、憲政史上最長の在職日数の首相となる。そして、そんな政治的安定性と引き換えに、日本の国力はますます下がっていった。GDPは中国の半分以下となった。団塊ジュニアは子どもを作れない年齢になった。日本の技術が世界を変えるとはだれも信じなくなった。貧困や児童虐待が連日報道され、嫌韓や嫌中のようなヘイトもまかりとおっているが、多くの日本人はそんなことに悩みすらしなくなってしまった。それでも東京五輪を控えて株価だけはあがり、日本はすごい、日本は変われる、日本はまだまだいけるという本ばかりが売れ続けている。

www.bookbang.jp

 

変革を求めて祭りを行なっている間に勝手に自滅していったのが現在の日本であると評してる。私が左派の活動家が自己批判したほうが良いと思うのは、こういう部分もある。互いに足の引っ張り合いを行なっている間に日本社会はどんどん沈没していく。そして必然的に左翼が守りたい社会的弱者もどんどん増えていく。自民党も左派勢力も何も状況を変えれない。自分が小学生の頃から少子化問題は叫ばれていたが社会問題は後回しのままであり日本経済も横ばいであり、何も変わらないまま緩やかに悪化し沈没していく。はじめは靴の底が濡れる程度の浸水が、今や靴下までに届くようになった気分である。じわりじわりと真綿で首を絞めるような速度で浸水は進んでいく。明日は今日よりも悪くなる。そんな時代になってしまっているのだ。

 

colaboの騒動も金周りのいい加減さは左派活動家の伝統であり、またやっているのか、と呆れるばかりである。裁判の結果などもはやどうでもよい。既に政治的に敗北している事柄であり、旧来の方法では市民のマジョリティに嫌われるという事実を自己批判してほしいが、東浩紀氏が指摘するように対話は難しそうに思える。平成の祭りでは数々のデモが行われたが、政治的に成果を残せたものは何一つない。例えばシールズが国会議事堂前で民主主義を問うて当時の首相の安倍晋三氏が変わったのだろうか?いつ頃そうなってしまったのかわからないが、どちらからそうなってしまったのかわからないが、それぞれが勝手に自分たちの主張を行い、対話というものが消滅したのも平成の時代だった。Twitterで左翼活動家が対話を拒否し相手をブロックしている様子を見ていると既視感を覚えてしまう。人間が対話を拒否すると問題解決は不可能になる。ただし、唯一解決方法はある。物理的な暴力である。人類最悪のソリューションである暴力である。昔からデモなんか意味はないと冷笑する人々はいるが、山上徹也氏が放った手製銃の二発の弾丸の政治的効果を見てしまえばデモを笑っていたのは正しかったと思わざるえない。暴力の時代になってしまったのである。国葬も散々批判されたにも関わらず強行された。対話は不可能であると受け取った方も少なくないと思う。銃弾が多く飛ばない静かな内戦、そう表現しても良いかもしれない。

 

00年代の終わり頃か、10年代の始まりごろか忘れてしまったが、いわゆるカルチャー誌の間で経済状況の苦難を乗り越えていくために「サバイブする」というライフハック的な言葉が流行り始めた。90年代にバブルが弾けて世紀末ということで終末論が流行ったが、21世紀に入ってからは世界破滅後にサバイバルを行なっている状況と思い始めている。バベルの塔は弾けてしまい言葉は互いにばらばらになり、意思の疎通は困難になる。問題解決を行いたければ暴力に頼るしかない日本の暗黒時代である。ゲームのFalloutか?

 

危惧しているのは暴力の矛先が社会的弱者に向かうことである。現状でも経済生産性のない人間にはヘイトが溜まっているが、いつそれが爆発してしまうのか。ナチスのT4作戦のような露骨な解決策は取らないと思うが、安楽死政策が実行される可能性はあると思っている。マイルドなT4作戦である。死にたいと思っている社会的弱者も利用できるし、末期患者も使えるようになり、法的な手続きを追えば経済的事情で意思疎通ができない人間を殺せるようになれるかもしれない。そして、自分自身も他人事ではなく、ある種の社会的圧迫により安楽死を選ばされる可能性は十二分にある。その時に旧来の左派活動家及び政治家は適切なソリューションを提示することが出来るのだろうか。今の現状を見る限りではとてもでないが彼らには期待できない。

 

P.S.

 

断っておくと私は対話を好みます。

漫画「生活保護特区を出よ」から考える役立たず扱いされた人間の生き方

まどめクレテックの「生活保護特区を出よ」の一巻と二巻が同時に発売された。あらすじは以下の通りである。

貧困、差別、格差をめぐる癒しと革命の物語。

1945年、大きな戦争により国中に浮浪者があふれ荒廃した日本は、福祉と治安維持のため二つの政策を行った。

一つは東京を復興し新しい都市「新都トーキョー」をつくること。
もう一つは、能力不振や病気、障害等により自立困難なものに国が衣食住、生活を保障する「生活保護特区」(俗称マントラアーヤ)を制定すること。

2018年、新都トーキョーの一般的な中流家庭で育った高校生フーカのもとへ「特区通知」が届く。この国で何となく生き、何となく幸せになれると思い込んでいた彼女にとって、それは青天の霹靂だった……

 

http://to-ti.in/product/mantra-arya

 

 

 

要するにパラレルワールドの日本を舞台にしたコミックである。生活保護をテーマにした漫画と言えば、柏木ハルコの「健康で文化的な最低限度の生活」があるが、あちらはルポルタージュに近い形で社会的弱者を描いたのに対して、本作はフィクションに近い形で現実の社会的弱者を描こうとしている。

 

ただ、柏木ハルコの「健康で文化的な最低限度の生活」が表すように生活保護者というのは様々な理由で社会的に排除され孤独であることが多いのだが、「生活保護特区を出よ」の架空の日本では彼らは孤独ではない。社会的にダメな人たちが集まり、一種のアジールとして機能しているコミュニティ(ただしそのアジールは政府によって強制されたものではあるのだが)を舞台にしている。

 

ハリジャンぴらの氏の作品解説によれば、そのコミュニティは「肥溜めは意外と暖かい」と表現している。*1

 

明らかに大阪の西成をモデルにしたスラム街を舞台に社会的に必要なくなった人間が棄民として捨てられてオルタナティブで文化的な生活を行っていく。小汚く貧困的な環境でダメ人間同士が安い酒を飲み、処方箋ドラッグをやり、古本を一日中読んだり、何か創作をしたり、拾ったゴミを改造した楽器で音楽を演奏して踊ったりするなど、結局、その様子には既視感があり、これはインターネットやサブカルチャーを好む人には知られているが、京都大学の寮文化から列なるギークハウスや山奥ニート達の共同生活とダブってしまう。

引用:「生活保護特区を出よ」第296ページ目中段

 

京都大学吉田寮の日常 

https://news.yahoo.co.jp/feature/1014/

ただ、違うのは後者は自ら選んでアジールに避難しているが、前者は政府によって強制的に隔離されている点である。

 

よく出来たフィクションというのは良い意味でも悪い意味でも現実を表してる。近代社会というのは工業化によって発展したが、製品を大量生産するためには標準化という枠組みを作る必要が出てくる。要するに近代以前は人間が一人ずつ手作業によってモノが作られていて当然ながらモノの品質にはバラつきがある。しかしながら、近代社会の工業生産では、製品を大量生産するためには仕様と規格を作る必要がある。製品を吐き出す機械の動作はワンパターンであるからだ。*2

 

社会学者が工場と学校の共通項を分析するように、学校教育というのはほんの少しのエリートと、大量のマンパワーを必要とする工場での労働者や軍隊の兵士を作るためのものである。そして、それは工場の機械が吐き出す製品と同じように仕様と規格があり、学校で教育を受ける人間の品質も均質化する。

 

しかしながら、機械が同じモノを吐き出すといっても何かしらのミスによって不良品が発生しゴミとして捨てられる。同じように、学校教育もそこから繋がる職業人生も仕様と規格から一定の範囲を外れたものは排除されるのだ。統計学的に言えば正規分布の左側のことである(そして、皮肉なことに統計学的に正規分布の右側の特殊な値である者がエリートとして研究者、官僚、将校などになっていく)。

 

生活保護特区を出よ」の主人公も学校成績が不良のため特区に嫌々ながら送られる。そして、明記はされていないが政府が決めた就労移行支援(まるで現実に存在するような)を続けていけば特区を脱出できるために清掃の仕事に就くのだが、学校生活で運動も勉強もダメだった主人公が適応することは難しかったのである。当然ながら、清掃などの業務も工場の生産のように仕様と規格があり、統計的にエラーと認定された人間が太刀打ちできるはずがないのだ。

 

引用:「生活保護特区を出よ」第31ページ目中段

 

主人公は自分の仕事の出来なさに自己嫌悪になり、自殺しようとするが同居人に止められて病院(精神科)に行くことになる。

 

引用:「生活保護特区を出よ」第311ページ目上段

 

ベルソムラは眠剤パキシル抗うつ剤、インチュニブは発達障害用の薬である。劇中のその他の様子からも発達障害的な様子は窺える。*3

 

結局、主人公は特区を脱出することを諦めて一日中古本を読む生活になってしまう。要するに労働者として機能しないことを認識したのであるカール・マルクス的に言えば生産手段を持たず自らの身体のみを資本とするものが労働者(プロレタリアート)であると定義したが、主人公の場合は労働者としても機能しないのである。故に生活保護者なのであるが、幸いなことに主人公は現実の生活保護者とは違い、孤独ではない。人間の集まりの中にいるのだ。人間が一人では経済は発生しないが、人間が複数人集まると経済活動は発生する。そして、警察の取り締まりや法規制も無ければそれは活性化する。主人公は(現実の生活保護者の中にも存在するように)不均質で非公式な経済活動に身を置くことになる。何か自分が出来る仕事はないか探すのである。特区での仕事は処方箋薬を路上で売ったり、女性や子供の送迎を行ったり、海賊ラジオを行うものや、シノギといえるようなものばかりだが、プロレタリアートとしての機能を失ったことを認識してから不均質な生産手段のようなものを獲得し始める。

 

pha氏が提唱したギークハウスは既に解散済だが、ギークハウスに関わっていた様々な面々も通常の組織で働きたくない or 働けない人間達が集まっていた。そして、よくわからない曖昧な人間が集まっているうちに、曖昧なシノギを見つけ生活費を工面している様子をインターネットで発信していた。誰が言っていたか忘れてしまったが、彼らは個人事業主じゃん、と指摘していたのを覚えている。そして、彼らの中には全国流通の週刊漫画雑誌で連載をはじめたり、インディーゲームを大ヒットさせたりするようになった。

 

そもそも今の時代はマルクスが言うブルジョワジー階級が占有している生産手段の一つである機械は安価に借りることもできるし、また機械を作っているのも人間であり、機械を作るための方法も公開されている。そして工場すらも所有しないファブレスという業態も普通になっている。それは服飾から半導体メーカーまで多くの企業が取り入れている。もちろん知識も大部分は公開されている。

 

結局、今の時代において生産手段とは何なのだろうか?となってしまう。物を作るだけならば誰でも出来る時代になっている。もちろん大規模で難解な製造業のような話でなくても、本来、人間は何かしらの生産能力を持っている。土地を耕し種を投げれば野菜が育つ、汚れた部屋は掃除できるし、路上で何かを売ったっていい。「生活保護特区を出よ」の主人公も政府が与えた清掃の仕事は早々と挫折してしまうが、住民の部屋の掃除は出来てしまっているのだ。

引用:「生活保護特区を出よ」第213ページ目上段

引用:「生活保護特区を出よ」第216ページ目上段

 

学校教育や法律によって生産能力が抑えられ労働者としての内面性を仕込まれているからことで個人の能力が阻害されているのではないだろうか。

 

そうなってくると世間的に役立たずと烙印を押した人たちを企業に再び雇わせていく就労移行支援施設という存在に疑問が生じる。ひきこもりの支援施設なども同様である。もちろん全てに意味がないとまでは言わないが、日本社会にいることで自然と身についてしまった労働者性というものから解放してあげるほうが有意義ではないかと思ったりもするのであった。

 

 

 

*1:トーチweb

to-ti.in

*2:また近代以降の軍隊も、工場が製品を大量に作れるように、工業化以前とは比較にならないレベルの大量殺戮が可能になった。

*3:私事で恐縮だが、私も発達障害当事者であり、「脳がバグる」というのは非常に的を得た表現であると感心してしまった。