アンチ戦後民主主義的、アンチ既得権益が西村博之である。
伊藤昌亮氏が岩波書店の論壇誌「世界」で2ちゃんねるの西村博之ことひろゆきについて批評した「ひろゆき論」が一部の界隈で話題になっていた。伊藤昌亮氏はひろゆきは「優しいネオリベラリズム」を志向すると分析している。
『世界』3月号に寄稿。「ひろゆき論―なぜ支持されるのか、なぜ支持されるべきではないのか」。プログラミング思考によるライフハックを通じて「優しいネオリベラリズム」を志向する彼とその信者は、なぜリベラルを嫌うのか。「情報知」によるポピュリズムの危うさとは。「ひろゆき現象」を考えます。 pic.twitter.com/qFOIzXpESS
— 伊藤昌亮/Masaaki ITO (@maito1212) 2023年2月9日
私も書店で購入して読んでみたが、非常に面白い評論だった。ただし、あまりポジティブな感想ではなく、ネガティブな意味である。ひろゆきの書籍を全て読み込み評論を書いたそうだが、リベラルを自称する方々がひろゆきの何を問題視し、何を嫌い、またひろゆきと同一視している文化人は誰か、ということが書かれていた。自分達のドグマとは反する概念を書籍から抜き出しており、逆説的にリベラル側の言説として機能する詩のような評論になっている。自分達が如何に支持されなくなってきているか、ということが書かれてる評論でもあるということだ。
特に「優しいネオリベラリズム」という言葉は、ひろゆきを表す言葉としては的を得た主張になっているが、オールド左翼から酷い目にあった当事者からすれば「適当なこと言ってんじゃねえ!死ね!オールド左翼!」と中指を突き立てながら叫びたくなった。
それはなぜか?
リベラリズムは社会正義や社会校正を標榜するが目の前の被害者は救済しなかったからである。
伊藤氏はリベラルとひろゆきのフォロワーとの弱者観の違いについて語っているのだが、リベラルの「弱者リスト」には、高齢者、障害者、LGBT、外国人、女性などがあげられている。
ひろゆきのフォロワーは、コミュ障、ひきこもり、生活保護の大人、子供部屋おじさん、ニート、うつ病の人などが上げられている。
これが両者の弱者観の違いであると伊藤氏は論じている。
評論では、なぜダメな人がネオリベラリズムに染まっていくのか書かれていくわけだが、単純な疑問が発生する。なぜリベラルは弱者を助けなかったのか?何ならば左翼の既得権益の組織で発生した弱者を放置してきた結果ではないか?と指摘しておく。
2ちゃんねるで2007年の11月に投稿された「ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない」という物語がある。ノンフィクションかフィクションかはわからないがネットロアの類であり、漫画化や映画化にもなった有名な作品である。
この作品の設定が日本の戦後民主主義において左翼が無視してきた弱者の全てを物語っている。
数年前、いじめにより高校中退で中卒、しかも10年近くのニート歴を持つ主人公は、母親の事故死を転機に就職を決意した。
そこで主人公は、中学時代の友人に基礎を教えてもらいながら基本情報技術者試験で国家資格を取る事にし、合格点ぎりぎりでの合格を果たし、その後数十社書類選考で落とされながら一つの企業に採用された。
しかしその会社はいわゆる「ブラック企業」で、入社当日から残業(勿論夜通しのサービス残業)が出るほどの過酷な仕事を言い渡された。周囲の人物と言えば無能な癖して部下達に仕事を押し付ける傲慢且つ独裁的な上司の「リーダー」に、リーダー同様仕事も出来無い上とんでもなく空気の読めずお調子者で且つ仕事そっちのけでガンダムシリーズに興じてばかりの能天気な「井出」、そして実力はあるが何もしゃべれずリーダーにいじめられ続ける気弱な「上原」。さらにはめちゃくちゃな納期を押し付けてくる取引先。当初からまともに会話ができるのは会社の「社長」と社内で一番仕事のできる「藤田」のみであった。
入社直後の苦境を乗り越えた主人公は社長の提案で入社2週間目にしてあるプロジェクトのリーダーに抜擢される。派遣社員の「中西」という女性も入って主人公はリーダーの辛さを思い知らされることに。そんな新入社員に対する軽い嫌がらせが続く中、藤田は常に主人公を支え続け、主人公も藤田を神のように尊敬していた。
その後主人公の受け持ったプロジェクトも成功し、入社1年も経たぬうちに何とか実力を認めてもらえることとなった。だが、プロジェクト終了からあまり時間の経たないうちに上原が精神科に入院してしまう。
さらに追い打ちをかけるように「中卒である」という主人公の学歴が社内でバレてしまい、リーダー達から罵声を浴びせられた。この「学歴事件」で彼は精神的ショックを受けて、退職を決意する。しかし、この学歴事件は、藤田が主人公を「辞めさせない」ための狙いでもあった。これを機に主人公は、自分とは両極端ながらも、どこか自分と似通った、藤田の壮絶な過去を知る。
学校の教職員の組合は諸派あれど基本的には左派である。しかし、現在でも問題になるように学校の先生は生徒がいじめられても助けてはくれない。いじめが原因でひきこもりになっても、誰も助けてはくれない。取ってつけたように行政は相談の窓口を用意するだけであり、本質的な解決は自助努力で解決するしかない。誰もが知るようにキャリアに欠陥がある人間の就職活動は困難に直面する。そして弱者が仕事を得れたとしてもブラック企業という地獄が待ち受けている。日本には左派の支持基盤の一つである労働組合や労基が存在するが、ブラック企業から労働者を守ってくれない。そしてブラック企業は人間の心を壊し精神科送りにする。病気になっても労働組合は守ってくれない。育児休暇を取得したら人事評価がマイナス、下手すれば解雇になる。私事だが小さい子供のために時短勤務を続けていた実姉は懲罰人事を受けて辞職することになった。なお某インフラ系企業で労働組合は強い会社であるにも関わらずだ。
リベラルが現実の目の前の弱者を助けたことはあったのだろうか?
私自身も学校ではいじめられたが誰も助けてくれなかったし、就活失敗、そして発達障害発覚、事実上の就労不可という地獄を見ているのだが、行政の支援は相談窓口の設置といった碌でも無いものしかなかったし、就労面でも希望があるような話は何もなかった。自分自身も左派文化人が好む文化や教養で育ってきたこともあって、取ってつけたように自己責任には反対と言っていたが、実際に福祉の狭間に落とされると絶望と憎悪が湧いてくる。対策として取ってつけたような予算をアウトソーシング先の雇用に使われるが、自分には一円も降ってこない。もちろん予算は微々たるもので当事者全員分としたら一人当たり数百円程度だろうが、それでも憎悪の矛先にはなる。
そして国会や街角で実被害がありもしない空虚な問題についてリベラルがアジテーションをしている。教職員が戦争の悲惨さを問うが、現実の目の前のいじめの被害者は助けようとしない。欺瞞そのものである。おまけに科学的な改善策などは学者から提案されているが導入されることはない。
そういったことは日本中の至る所で起きている、知的障害者施設では暴行事件が日常的に発生し、何ならば大量に殺されるという事件も起きるが、本質的な対策が取られることはない。空虚な言葉で「優生思想をいけない!」と叫ぶだけだ。また友人が知的障害者施設で勤務しているが、役所からコンプライアンスの強化についてのお触れ書きが送られてくるが、指導に従うインセンティブはゼロである。要するに現場が疲弊するだけである。そして友人も当然ながら知的障害者から暴力を振るわれているが、友人が知的障害者に暴力を振るうことは許されれない。インターネットでオタクがよく引用するパトレイバー2のセリフを突きつけたくなる。
「戦線から遠のくと楽観主義が現実に取って代る。 そして最高意志決定の段階では、現実なるものはしばしば存在しない。 戦争に負けている時は特にそうだ。」
ジェイムズ・ダニガンの『戦争のテクノロジー』
そもそもネオリベラリズムの定義が出来る人間はいない。市場規制派や市場規制緩和派、もしくは大きな政府、小さな政府などの政治的な志向を指すと思うが、市場規制派であり小さな政府も成立するし、大きな政府志向で市場緩和派も成立する。そして、日本の第一産業のように規制が守られてことで資本である農地が放棄されて問題視されているが、規制は緩和しなくて良いのだろうか?都市部の不動産の高騰化は規制しなくて良いのだろうか?
はっきり言ってリベラルによる党派性の違いによるレッテル付けの悪口でしかなく、あの竹中平蔵ですらネオリベではないと否定している。
00年代の2ちゃんねるの空気感の平均化がひろゆきであり、あの当時の空気感を引きずったまま発言をしているように思える。つまり、ひろゆきはアンチ戦後民主主義であり、アンチ既得権益である。何もわかっていない文化人が2ちゃんねるに対して「便所の落書き」や「ネット右翼の巣窟」と言った表現をしてきたが、実態は異なる。リベラルも含めた様々な属性の人が集まっていた。ただ、彼らが蛇蝎していたのは戦後民主主義が作り出した日本の様々な欺瞞であり、欺瞞について語る場所でもあった。だから、統一教会の政治的なポジションと搾取行為に不満があり安倍晋三のことを安倍壺三と中傷する。ロマン優光がひろゆきの統一教会についての悪口は「単なる勝ち馬に乗っているだけ」と評していたが、大昔から統一教会の悪口が書かれていたのはネラーには常識であった。そして右翼が安倍晋三の悪口を言えるだろうか?当時の2ちゃんねるは様々な党派性を持つ人々が欺瞞について語る場所であった。
そもそも何十万人も利用する掲示板のユーザーの党派性が一つと考えるほうが異常である。
以下の匿名ダイアリーの投稿の文章は当時の空気感を表すものとしては名文である。映画ファイトクラブのタイラーの演説的な雰囲気すらある。全文を読んで欲しいが、一文だけ引用すると最後の文章が非常に示唆的である。
マスメディアも嫌いで嫌いで滅茶苦茶叩いて疑ってネットを伸ばした。
テレビも新聞も雑誌も当時の支配力と比べりゃ見る影もない。
まだ力あるじゃんて思う人は往時の力を知らないか忘れてる。
24時間テレビでゴミ拾いする予定地をネット有志が先にきれいにしてやったりね。
当時はあらゆることがメディアの陳腐なセンスと加工で覆われてたから
ああやって風穴を開けることに意味があったんだ。
今の若い人に意味が伝わらなければ社会はそれだけよくなったってことさ。
貧しくなってることはかわいそうだと思うけど社会の空気はましになってるような気がする。
腐れメディアと団塊とバブルの屑どもの掃討がおれら世代に最後にのこった下世代への責務だと思ってる。
どうせ俺らが老いる頃は福祉も減って今ほど長生きせずに害になる期間少なく消えていくだろう。
https://megalodon.jp/2022-0610-2040-40/https://anond.hatelabo.jp:443/20220607141101
2ちゃんねるの運動の成果として、オールドメディアによる押し付け的な価値観は終焉を迎えた。恋愛は推し活に置き換わり、クリスマスはカップルで過ごす日ではなく単なる販促イベントになり、ファッションはファストファションが市場を駆逐し、月9を見る義務は消滅し、特定の活動家に忖度した偏向報道も減少した。
もちろんスマートフォンの普及などテクノロジーの進化が2ちゃんねる的な価値観を後押したが、オールドメディアによる欺瞞に対するカウンターとして機能していたのは事実であろう。
ひろゆきは右派左派関わらず戦後民主主義社会に生まれた欺瞞や既得権益に対して喧嘩を売り続ける・要するに一人で2ちゃんねるの総体を表現しているように見えてしまう。
00年代の2chの管理人のひろゆきをタラコ野郎とネラーは罵っていたが、掲示板でのコミュニケーションには思い入れがある。現在の大衆にとってひろゆき自体が掲示板であり、自分自身の不満を代弁してくれる人として認識しているのならば、彼の好感度が大衆の間で上がっていくのも理解出来る。一種のアンチヒーローとして機能しているのだろう。
もちろんひろゆきがクソ野郎なのはネラーの共通見解である。2ちゃんねるの平均化、戦後民主主義や既得権益に対するアンチという表現はしたが、主張に関しては同意出来ることもあれば出来ないこともあるし、複雑な現実を簡単に言い切るのは大衆をバカにしていく装置でもある。ただ、あの独特の言い回しのリズムが魅力なのだが、同時に矛を向けられた側は殺意を覚えるほどに腸が煮え返るのもまた事実であろう。要するに彼はラッパーである。無意味に他人と対立を繰り返すラッパー。故に意見が真逆になっても彼のフォロワーは喜ぶと思う。発言の内容に意味はない。*1
ただ、リベラルが助けてこなかった人間に手を差し伸べているのも事実だろう
よって、伊藤昌亮氏の評論の最後にひろゆきやネオリベラリズムにどう対抗していけばいいか?と書かれていたが、理念や綺麗事の前に目の前の弱者を助けていくことが肝要と思われる。
もちろんイジメ問題や労働問題に関しても00年代に比べると現在は改善が行われてきている。
労働組合が存在しない会社の労働問題については、2014年に総合サポートユニオンが出来ている。学校に関してはN予備校などの集団生活が苦手な人でもインターネットを通じて学べる通信高校が新たに誕生している。
前者に関しては、反貧困ネットワークの湯浅誠氏から派生したプロジェクトであり、代表者はどちらも80年代生まれの若手である。後者に関してはリベラルが嫌う2ちゃんねるの影響が強い会社から派生した事業であるが、資本を用いてWebシステムの構築を行い通常の学校教育が合わない子のための代替策を提案している。
課題解決の方法として様々な方法があると思うが、世の中が資本で回っている以上は資本を獲得しなければ目的の達成は出来ないだろう。古典的な話をしまえば日本赤軍の資金はあまりにもしょぼかったが、オウム真理教は様々な事業を行い軍用兵器の調達に成功していた事実がある。というか、世界中の反政府組織を何らかの形で事業を行い資金調達を行なっているのは明らかであり、伝統的に日本の左派が金儲けに忌避していたことを止めるべきと思っている。
そもそもリベラルの思想の源流であるマルクス主義では科学技術を持って資本主義を是正することが理念である。ソ連も圧倒的なビジョンと科学技術力で経済成長を続けていた歴史的事実がある。
しかし、現在のリベラルの人たちは金儲けが嫌いだし、何なら科学技術も嫌いだし、リベラルの主流派を観察していると脱成長と環境保護主義的な側面に流れてしまっている。もちろん旧来のドグマの影響もあるのだが、ソ連社会が目指していたような圧倒的な科学技術力や経済の力で世の中を改善する意思をまるで感じられない。
むしろ、スタートアップ企業がテクノロジーと金融の力で社会課題を解決する!と標榜するほうがソ連的な社会主義の正義に近いと思えてしまうほどだ。*2
リベラルが社会正義、社会公正を行いたいと思うのならば、政治的な政策や規制も重要とは思うが、目の前の人間を助けるために金の問題から逃げないことが重要と思っている。