なつやすみ日記

猫のような日々

マインクラフトが見せてくれた未来

僕は東京都郊外のとある駅のカフェで昼食を摂っていた。1日の平均利用人数は6000人程度の小さい駅だ。山間部の麓に位置し、猪や鹿の姿はもちろん、場合によっては日本猿を見れるときもある。つまるところ田舎だ。

 

カフェはリーズナブルな価格帯だった。駅周辺近辺にファストフード店は存在しない。そのため中学生や高校生の溜まり場としても機能していた。

 

僕が座った席から斜め右のボックス席で中学生達がスマートフォンでゲームをしていた。マインクラフトで工作物を作っていたのだ。マインクラフトに飽きたらパズドラを遊んでいた。前者は海外のインディゲーム、後者は国内大手デベロッパーのソーシャルゲームだ。僕の子供の頃と大きく状況は変わっていた。マリオのようにボタンを押して破壊することしかできなかったゲームが大きなシェアを占めていたし、ましてインディゲームをプレイする環境は一部の財力と時間に余裕がある大人にしかできなかったことだ。

 

App StoreGoogle Playのランキングにマインクラフトが常に上位であることは誰でも知っていることだ。有料アプリではマインクラフト、無料アプリではパズドラが上位だ。当たり前だけど、中学生や高校生と触れ合う機会は無いから実際に遊んでいる姿を見たのは初めてだった。何かを作ったりするゲームは昔からあるけど、日本一稼いでるソーシャルゲームと並び立っているのは文化的な分岐点と思っている。

 

『僕たちのゲーム史』という本でテレビゲームとはボタンを押して何かが起きることだ、と定義していた。日本一有名なゲームのスーパーマリオならばボタンを押すとマリオがジャンプをする。そしてマリオはブロックを破壊するだろう。

 

ボタンを押して何かを壊す、テレビゲームとは基本的にそういうものだ。インターネットの普及で美しく何かを壊す人たちを見れるようになった。彼らはTASと呼ばれる人たちだけど、一方でボタンを押して作り出す人たちも見れるようになった。マインクラフトで手間暇をかけて驚天動地の製作物を披露しはじめたのだ。そして自分でも作ってみたい、と刺激された人たちがマインクラフトをダウンロードするのだろう。

 

中学生がロックスターに憧れてエレキギターを手にするような現象がゲームを遊ぶことでも起きているということだ。

 

ソーシャルゲームの課金者は意外と年齢が高いそうだ。当たり前だ。経済的余力が無いと課金できないからだ。そして、推測に過ぎないのだが、彼らが子供の頃に遊んだゲームはブロックを壊す、消費をすることに価値を見出しているから課金をするのではないだろうか。ブロックを気持ちよく壊すことにはお金がかかるのだ!

 

マインクラフトで遊んでいる子供達が大人になったときにどういう社会が作られれるのだろうか。生産物を作るためのツールにお金を払うことは今と変わらないかもしれないが、自分で自分自身の道具、もしくは隣人の道具を生産することが一般的になっているのかもしれない、と想像すると少しワクワクしてくる。ゲーム関係で話題になっている言葉でVR(virtual reality)がある。一昔前だとゲーミニフィケーションだ。後者は既に忘れ去られ、前者も近いうちに忘れさられるだろう。夢みたいなことが僕の手元に来るまでは時間がかかる。テクノロジーとは往々としてそういうものだ。ただ、15年後、20年後に訪れる未来はテクノロジーが一般化していることもある。マインクラフトを遊んでいる中学生達は転換点なのかもしれない。70年代から何十年間も壊すことばかりに夢中だったんだから。

僕たちのゲーム史 (星海社新書)

僕たちのゲーム史 (星海社新書)