劇団ままごとの「あたらしい憲法のはなし」を見てきた
2015/9/20(日)に劇団ままごとの「あたらしい憲法のはなし」を見てきた。劇作家・演出家の柴幸男さん率いる劇団だ。
たまたま知人が「あたらしい憲法のはなし」のオーディションに受かった。その縁で僕は出不精の重い腰を上げて人生初の演劇を見に行くことになったのだ。彼らのことはちょっと知っている。僕が音楽が好きだからだ。彼らは□□□(クチロロ)の三浦廉嗣さんが作った『00:00:00』という曲を劇伴に使っていたことがある。劇の題名は『わが星』だ。
AI・HALL共催公演 ままごと『わが星』 柴幸男インタビュー
ところで僕は古くて弱いものが嫌いだ。様々なライブ活動を肯定する意見がある。再現性が二度と無いものでアウラが宿っているとかなんとかって意見だ。全て録音録画してインターネットで配信すればいいし、好きな場所で好きな時間に、楽しみたいと思っている。時間的空間的経済的束縛が嫌いな現代っ子だからだ。
演者達の声は聞き取りにくかった。周りの観客もそうだったのか少し前のめりになっているように思えた。市民公園の池の部分に作られたステージは元来反響を考えられていない。演者達の声は四方に霧消していまう。そのせいで聞き難かった面もあるだろうが僕たちの耳はマイクロフォンによる電気的増幅に慣れてしまっている。元来の人間の声はなんて弱々しいものなのだろうか。すこし時間が経つと耳も慣れていき演者達の台詞も聞こえきた。一方で耳が慣れていく自分自身に人間の力強さも感じたりした。
ご存知の方も多いと思うが劇名の由来は1947年8月2日に当時の文部省は、同年5月3日に公布された日本国憲法の解説のために新制中学校1年生用社会科の教科書「あたらしい憲法のはなし」が元ネタになっている。
昨今の社会情勢的に政治的な内容だろうと想像していた。国会前で広がる様々なアジテート。政治的な是非はともかくとしてポジティブな感情になりにくい言葉を使っている。少しうんざりするかもしれない、と思いつつも劇を観ることにしたのだった。
オーディションに合格した知人の話によると、脚本が存在しなかったそうだ。集まった演者達と脚本家で徐々に作り上げていったそうだ。またオーディションの様子を聞いたときも面白い方法だと思った。参加者達を部屋の四方にランダムに歩かせる。歩いてるとお互いの身体の一部がぶつかり合う。その時に、何かアドリブでアクションを示す。それがオーディションのテスト内容の一つだった。そこに脚本や役は無かった。門外漢の僕の気を惹いてくれる要因の一つになった。素人目からすればオーディションは何か台詞を読ませたり役を演じさせたりするものだと思い込んでいたからだ。
戯曲「あたらしい憲法のはなし」が以下で無料公開されている。正直に言ってしまえばプロットやレトリックは普段僕たちが見慣れている映画に比べてしまえば然程洗練はされていない。合格点を与えられる程度には楽しめるといったものだ。この演劇の魅力はそこではない。
オーディションには200人集まり合格者は20人だそうだ。もちろん脚本家にはどのような人たちが集まるかは知る術はない。いろいろな人達を材料にして劇を作り上げていくのだ。その中には日本語がおぼつかないアングロサクソン系の留学生らしき人もいたのだ。彼には狂言回しの役が与えれていた。片言の日本語で演者達を茶化しながらストーリーの展開を示唆していった。もし彼がオーディションに来なかったら誰があの役をやっていたのだろうか。たまたま集まった人達で劇を一から作り上げていく。様々な知恵や工夫が劇に詰めていく。それは前に向かうこと、すなわち未来を作り上げていくことである。
戯曲「あたらしい憲法のはなし」は公園に池に設置された板を一つの島と見立て国家が出来上がっていくお話だ。漂流して流れ着いた人々が国を作っていく。誰もが未来において幸せでいられるように問題を解決していく。劇の終盤に演者達全員が池で四方八方に暴れ回るシーンがある。それまでは池の中央に設置された小さい板の上だけのものが突然はじかれ可能性が外に広がっていく。もちろんそのシーン自体は仲違いをしてしまい国が二つに割れてしまい戦争をしている、という表現で平和的なシーンではないが、液晶モニターには写せないカタルシスがあった。20人ばかりの男女が縦横無尽に池で暴れ回るし、飛び跳ねた水は観客にまでふりかかる。もちろん嫌がる人もいるだろうが生命力に満ち溢れた表現で僕の心は震えた。散文の最後は元ネタを引用して〆よう。
みなさん、あたらしい憲法は、日本國民がつくった、日本國民の憲法です。これからさき、この憲法を守って、日本の國がさかえるようにしてゆこうではありませんか。
誰もが幸せになるために未来を作り上げていこう。