なつやすみ日記

猫のような日々

アンチ戦後民主主義的、アンチ既得権益が西村博之である。

伊藤昌亮氏が岩波書店論壇誌「世界」で2ちゃんねる西村博之ことひろゆきについて批評した「ひろゆき論」が一部の界隈で話題になっていた。伊藤昌亮氏はひろゆきは「優しいネオリベラリズム」を志向すると分析している。

 

 

 

私も書店で購入して読んでみたが、非常に面白い評論だった。ただし、あまりポジティブな感想ではなく、ネガティブな意味である。ひろゆきの書籍を全て読み込み評論を書いたそうだが、リベラルを自称する方々がひろゆきの何を問題視し、何を嫌い、またひろゆきと同一視している文化人は誰か、ということが書かれていた。自分達のドグマとは反する概念を書籍から抜き出しており、逆説的にリベラル側の言説として機能する詩のような評論になっている。自分達が如何に支持されなくなってきているか、ということが書かれてる評論でもあるということだ。

 

特に「優しいネオリベラリズム」という言葉は、ひろゆきを表す言葉としては的を得た主張になっているが、オールド左翼から酷い目にあった当事者からすれば「適当なこと言ってんじゃねえ!死ね!オールド左翼!」と中指を突き立てながら叫びたくなった。

 

それはなぜか?

 

リベラリズムは社会正義や社会校正を標榜するが目の前の被害者は救済しなかったからである。

 

伊藤氏はリベラルとひろゆきのフォロワーとの弱者観の違いについて語っているのだが、リベラルの「弱者リスト」には、高齢者、障害者、LGBT、外国人、女性などがあげられている。

 

ひろゆきのフォロワーは、コミュ障、ひきこもり、生活保護の大人、子供部屋おじさん、ニートうつ病の人などが上げられている。

 

これが両者の弱者観の違いであると伊藤氏は論じている。

 

評論では、なぜダメな人がネオリベラリズムに染まっていくのか書かれていくわけだが、単純な疑問が発生する。なぜリベラルは弱者を助けなかったのか?何ならば左翼の既得権益の組織で発生した弱者を放置してきた結果ではないか?と指摘しておく。

 

2ちゃんねるで2007年の11月に投稿された「ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない」という物語がある。ノンフィクションかフィクションかはわからないがネットロアの類であり、漫画化や映画化にもなった有名な作品である。

 

この作品の設定が日本の戦後民主主義において左翼が無視してきた弱者の全てを物語っている。

数年前、いじめにより高校中退で中卒、しかも10年近くのニート歴を持つ主人公は、母親の事故死を転機に就職を決意した。

そこで主人公は、中学時代の友人に基礎を教えてもらいながら基本情報技術者試験で国家資格を取る事にし、合格点ぎりぎりでの合格を果たし、その後数十社書類選考で落とされながら一つの企業に採用された。

しかしその会社はいわゆる「ブラック企業」で、入社当日から残業(勿論夜通しのサービス残業)が出るほどの過酷な仕事を言い渡された。周囲の人物と言えば無能な癖して部下達に仕事を押し付ける傲慢且つ独裁的な上司の「リーダー」に、リーダー同様仕事も出来無い上とんでもなく空気の読めずお調子者で且つ仕事そっちのけでガンダムシリーズに興じてばかりの能天気な「井出」、そして実力はあるが何もしゃべれずリーダーにいじめられ続ける気弱な「上原」。さらにはめちゃくちゃな納期を押し付けてくる取引先。当初からまともに会話ができるのは会社の「社長」と社内で一番仕事のできる「藤田」のみであった。

入社直後の苦境を乗り越えた主人公は社長の提案で入社2週間目にしてあるプロジェクトのリーダーに抜擢される。派遣社員の「中西」という女性も入って主人公はリーダーの辛さを思い知らされることに。そんな新入社員に対する軽い嫌がらせが続く中、藤田は常に主人公を支え続け、主人公も藤田を神のように尊敬していた。

その後主人公の受け持ったプロジェクトも成功し、入社1年も経たぬうちに何とか実力を認めてもらえることとなった。だが、プロジェクト終了からあまり時間の経たないうちに上原が精神科に入院してしまう。

さらに追い打ちをかけるように「中卒である」という主人公の学歴が社内でバレてしまい、リーダー達から罵声を浴びせられた。この「学歴事件」で彼は精神的ショックを受けて、退職を決意する。しかし、この学歴事件は、藤田が主人公を「辞めさせない」ための狙いでもあった。これを機に主人公は、自分とは両極端ながらも、どこか自分と似通った、藤田の壮絶な過去を知る。

https://ja.wikipedia.org/wiki/ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない

 

学校の教職員の組合は諸派あれど基本的には左派である。しかし、現在でも問題になるように学校の先生は生徒がいじめられても助けてはくれない。いじめが原因でひきこもりになっても、誰も助けてはくれない。取ってつけたように行政は相談の窓口を用意するだけであり、本質的な解決は自助努力で解決するしかない。誰もが知るようにキャリアに欠陥がある人間の就職活動は困難に直面する。そして弱者が仕事を得れたとしてもブラック企業という地獄が待ち受けている。日本には左派の支持基盤の一つである労働組合や労基が存在するが、ブラック企業から労働者を守ってくれない。そしてブラック企業は人間の心を壊し精神科送りにする。病気になっても労働組合は守ってくれない。育児休暇を取得したら人事評価がマイナス、下手すれば解雇になる。私事だが小さい子供のために時短勤務を続けていた実姉は懲罰人事を受けて辞職することになった。なお某インフラ系企業で労働組合は強い会社であるにも関わらずだ。

 

リベラルが現実の目の前の弱者を助けたことはあったのだろうか?

 

私自身も学校ではいじめられたが誰も助けてくれなかったし、就活失敗、そして発達障害発覚、事実上の就労不可という地獄を見ているのだが、行政の支援は相談窓口の設置といった碌でも無いものしかなかったし、就労面でも希望があるような話は何もなかった。自分自身も左派文化人が好む文化や教養で育ってきたこともあって、取ってつけたように自己責任には反対と言っていたが、実際に福祉の狭間に落とされると絶望と憎悪が湧いてくる。対策として取ってつけたような予算をアウトソーシング先の雇用に使われるが、自分には一円も降ってこない。もちろん予算は微々たるもので当事者全員分としたら一人当たり数百円程度だろうが、それでも憎悪の矛先にはなる。

 

そして国会や街角で実被害がありもしない空虚な問題についてリベラルがアジテーションをしている。教職員が戦争の悲惨さを問うが、現実の目の前のいじめの被害者は助けようとしない。欺瞞そのものである。おまけに科学的な改善策などは学者から提案されているが導入されることはない。

 

そういったことは日本中の至る所で起きている、知的障害者施設では暴行事件が日常的に発生し、何ならば大量に殺されるという事件も起きるが、本質的な対策が取られることはない。空虚な言葉で「優生思想をいけない!」と叫ぶだけだ。また友人が知的障害者施設で勤務しているが、役所からコンプライアンスの強化についてのお触れ書きが送られてくるが、指導に従うインセンティブはゼロである。要するに現場が疲弊するだけである。そして友人も当然ながら知的障害者から暴力を振るわれているが、友人が知的障害者に暴力を振るうことは許されれない。インターネットでオタクがよく引用するパトレイバー2のセリフを突きつけたくなる。

 

「戦線から遠のくと楽観主義が現実に取って代る。 そして最高意志決定の段階では、現実なるものはしばしば存在しない。 戦争に負けている時は特にそうだ。」

ジェイムズ・ダニガンの『戦争のテクノロジー

 

そもそもネオリベラリズムの定義が出来る人間はいない。市場規制派や市場規制緩和派、もしくは大きな政府、小さな政府などの政治的な志向を指すと思うが、市場規制派であり小さな政府も成立するし、大きな政府志向で市場緩和派も成立する。そして、日本の第一産業のように規制が守られてことで資本である農地が放棄されて問題視されているが、規制は緩和しなくて良いのだろうか?都市部の不動産の高騰化は規制しなくて良いのだろうか?

はっきり言ってリベラルによる党派性の違いによるレッテル付けの悪口でしかなく、あの竹中平蔵ですらネオリベではないと否定している。

 

閑話休題

 

00年代の2ちゃんねるの空気感の平均化がひろゆきであり、あの当時の空気感を引きずったまま発言をしているように思える。つまり、ひろゆきはアンチ戦後民主主義であり、アンチ既得権益である。何もわかっていない文化人が2ちゃんねるに対して「便所の落書き」や「ネット右翼の巣窟」と言った表現をしてきたが、実態は異なる。リベラルも含めた様々な属性の人が集まっていた。ただ、彼らが蛇蝎していたのは戦後民主主義が作り出した日本の様々な欺瞞であり、欺瞞について語る場所でもあった。だから、統一教会の政治的なポジションと搾取行為に不満があり安倍晋三のことを安倍壺三と中傷するロマン優光ひろゆき統一教会についての悪口は「単なる勝ち馬に乗っているだけ」と評していたが、大昔から統一教会の悪口が書かれていたのはネラーには常識であった。そして右翼が安倍晋三の悪口を言えるだろうか?当時の2ちゃんねるは様々な党派性を持つ人々が欺瞞について語る場所であった。

 

そもそも何十万人も利用する掲示板のユーザーの党派性が一つと考えるほうが異常である。

 

以下の匿名ダイアリーの投稿の文章は当時の空気感を表すものとしては名文である。映画ファイトクラブのタイラーの演説的な雰囲気すらある。全文を読んで欲しいが、一文だけ引用すると最後の文章が非常に示唆的である。

**当事者としては90年代後半の青春時代はクソ

マスメディアも嫌いで嫌いで滅茶苦茶叩いて疑ってネットを伸ばした。

テレビも新聞も雑誌も当時の支配力と比べりゃ見る影もない。

まだ力あるじゃんて思う人は往時の力を知らないか忘れてる。

24時間テレビでゴミ拾いする予定地をネット有志が先にきれいにしてやったりね。

当時はあらゆることがメディアの陳腐なセンスと加工で覆われてたから

ああやって風穴を開けることに意味があったんだ。

今の若い人に意味が伝わらなければ社会はそれだけよくなったってことさ。

貧しくなってることはかわいそうだと思うけど社会の空気はましになってるような気がする。

腐れメディアと団塊とバブルの屑どもの掃討がおれら世代に最後にのこった下世代への責務だと思ってる。

どうせ俺らが老いる頃は福祉も減って今ほど長生きせずに害になる期間少なく消えていくだろう。

https://megalodon.jp/2022-0610-2040-40/https://anond.hatelabo.jp:443/20220607141101

 

 

2ちゃんねるの運動の成果として、オールドメディアによる押し付け的な価値観は終焉を迎えた。恋愛は推し活に置き換わり、クリスマスはカップルで過ごす日ではなく単なる販促イベントになり、ファッションはファストファションが市場を駆逐し、月9を見る義務は消滅し、特定の活動家に忖度した偏向報道も減少した。

 

もちろんスマートフォンの普及などテクノロジーの進化が2ちゃんねる的な価値観を後押したが、オールドメディアによる欺瞞に対するカウンターとして機能していたのは事実であろう。

 

ひろゆきは右派左派関わらず戦後民主主義社会に生まれた欺瞞や既得権益に対して喧嘩を売り続ける・要するに一人で2ちゃんねるの総体を表現しているように見えてしまう。

 

00年代の2chの管理人のひろゆきをタラコ野郎とネラーは罵っていたが、掲示板でのコミュニケーションには思い入れがある。現在の大衆にとってひろゆき自体が掲示板であり、自分自身の不満を代弁してくれる人として認識しているのならば、彼の好感度が大衆の間で上がっていくのも理解出来る。一種のアンチヒーローとして機能しているのだろう。

 

もちろんひろゆきがクソ野郎なのはネラーの共通見解である。2ちゃんねるの平均化、戦後民主主義既得権益に対するアンチという表現はしたが、主張に関しては同意出来ることもあれば出来ないこともあるし、複雑な現実を簡単に言い切るのは大衆をバカにしていく装置でもある。ただ、あの独特の言い回しのリズムが魅力なのだが、同時に矛を向けられた側は殺意を覚えるほどに腸が煮え返るのもまた事実であろう。要するに彼はラッパーである。無意味に他人と対立を繰り返すラッパー。故に意見が真逆になっても彼のフォロワーは喜ぶと思う。発言の内容に意味はない。*1

 

ただ、リベラルが助けてこなかった人間に手を差し伸べているのも事実だろう

 

よって、伊藤昌亮氏の評論の最後にひろゆきネオリベラリズムにどう対抗していけばいいか?と書かれていたが、理念や綺麗事の前に目の前の弱者を助けていくことが肝要と思われる。

 

もちろんイジメ問題や労働問題に関しても00年代に比べると現在は改善が行われてきている。

 

労働組合が存在しない会社の労働問題については、2014年に総合サポートユニオンが出来ている。学校に関してはN予備校などの集団生活が苦手な人でもインターネットを通じて学べる通信高校が新たに誕生している。

 

前者に関しては、反貧困ネットワーク湯浅誠氏から派生したプロジェクトであり、代表者はどちらも80年代生まれの若手である。後者に関してはリベラルが嫌う2ちゃんねるの影響が強い会社から派生した事業であるが、資本を用いてWebシステムの構築を行い通常の学校教育が合わない子のための代替策を提案している。

 

課題解決の方法として様々な方法があると思うが、世の中が資本で回っている以上は資本を獲得しなければ目的の達成は出来ないだろう。古典的な話をしまえば日本赤軍の資金はあまりにもしょぼかったが、オウム真理教は様々な事業を行い軍用兵器の調達に成功していた事実がある。というか、世界中の反政府組織を何らかの形で事業を行い資金調達を行なっているのは明らかであり、伝統的に日本の左派が金儲けに忌避していたことを止めるべきと思っている。

 

そもそもリベラルの思想の源流であるマルクス主義では科学技術を持って資本主義を是正することが理念である。ソ連も圧倒的なビジョンと科学技術力で経済成長を続けていた歴史的事実がある。

 

しかし、現在のリベラルの人たちは金儲けが嫌いだし、何なら科学技術も嫌いだし、リベラルの主流派を観察していると脱成長と環境保護主義的な側面に流れてしまっている。もちろん旧来のドグマの影響もあるのだが、ソ連社会が目指していたような圧倒的な科学技術力や経済の力で世の中を改善する意思をまるで感じられない。

 

むしろ、スタートアップ企業がテクノロジーと金融の力で社会課題を解決する!と標榜するほうがソ連的な社会主義の正義に近いと思えてしまうほどだ。*2

 

リベラルが社会正義、社会公正を行いたいと思うのならば、政治的な政策や規制も重要とは思うが、目の前の人間を助けるために金の問題から逃げないことが重要と思っている。

 

*1:よって彼に反論することは意味がない。彼の手のひらで踊っているだけである。彼に対抗するのは同じリズム芸で抵抗することである。つまり、ラップバトルである。インプレッションとフォロワーを増やしていけっ!!!ということである。朝倉未来のブレイキングバッドが流行るわけですよ・・・。あれも喧嘩の掛け合いを真面目に見ているものはいない(笑)

*2:そして、実際に世間ではほとんど知られていないが技能実習生の奴隷問題も株式会社おてつたびというスタートアップのサービスのおかげで一部の農家が技能実習生を入れずに済んでいる。

小さな物語と小さな政治活動と小さな生活のススメ

政治活動の最終的な出口は生活を変えることである。よって市民革命以後の活動家達は生活を変えるために共産主義など様々な大きなイデオロギーを持った勢力が、政府(民主主義で資本主義国家)という大きなイデオロギーに正面衝突していき勝者が法律や経済を変えてきた。

 

市民革命以後の近代というのは戦争の時代と言い換えても間違ってはいないだろう。それは人権や平等や民主的選挙制度などを持った資本主義国家が、自国の経済を保つために他国を侵略したり、資本主義国家のカウンターとして共産主義国家社会主義が生まれて戦争や虐殺が起きた。何にせよ近代的なイデオロギーが引き起こしたものであり、現代思想の用語で言えば「大きな物語」であり、それに「大きな物語」で対抗し、急進的に社会変革を迫れば大量の人間が物理的な暴力に晒されることは歴史上明らかである。

 

現在、所謂、リベラリスト*1と揶揄される方々も同じような「大きな物語」のイデオロギーを持ったグループであり、政府による法規制で社会の変革を試みている。

 

しかし、法規制で政府が圧力をかけたところで人々の心の有り様が変化するのだろうか?ソ連イスラム教を弾圧し存在しないことにしたが、ソ連崩壊後にイスラム教は復活した。よく知られているように安土桃山時代から日本でもキリスト教の弾圧は行われたが、明治政府がキリスト教を解禁するまでひっそりと隠れキリシタンは生き残ってきた。根本的に圧力で心を支配することなど不可能であり、何なら反発や反動*2、反乱行為を招く結果になるだけである。そして、反乱行為を抑え込むために軍隊や警察が動員され人間が物理的に傷ついていく。右派にせよ、左派にせよ、近代的なイデオロギーに支配された人間は暴力性を孕んだ存在であり、例えば、西洋的な市民革命後の価値観(人権、民主主義、資本主義)と異なる国や地域に急進的に幾度となく迫っために、大量の人間が暴力に晒され傷つき社会が分断されてしまった歴史がある。私たちから見て人権が蹂躙されている社会だからと言って変革を急進的に迫り彼らが犠牲になっていいわけはない。

 

結局のところ、暴力を使わずに社会変革を行い、**人々の生活を変えるには、まずは自分の生活を変えるしか方法はない。あらゆる政治的課題、社会問題、文化的問題、気に食わないことがあれば政府など大きなイデオロギーは無視してしまい自ら実践して理想の生活をしてしまえば良いのだ。そして、仲間が欲しければ思想を伝えるためのデザインを考え、誰かを攻撃などせずに、1人ずつ仲間を増やして同じ生活をするものを拡大して行けばいいのである。**これが現代思想でいうところの「小さな物語」の作り方である。ポストモダニストと言っても良い。脱近代的なイデオロギーの思想である。現代思想的には記号を脱構築し再構築するとも言えるだろう。

 

残念ながら、小さな物語というのは大きな物語と比べて目立つ存在ではない。よって、社会に分散して存在しているのが実情ではある。

 

例えば、日本の労働社会に嫌気が差したならば、日本一のニートを名乗り、働きたくないダメ人間やギークを集めてシェアハウスで擬似家族的な共同生活を行い、インターネット上からカンパや物資を募り、働かずにダラダラと好きなように生きていくことを実践したpha氏はポストモダニズム的な政治活動家と言えるだろう。和歌山の限界集落で集団生活をする山奥ニートの葉梨氏などのフォロワーも生み出し、限界集落で子供が生まれ様々な大人に囲まれながら子育てが行われているそうだ。これは小さな革命である。核家族的な社会に対するアンチテーゼであり、全国的に消滅寸前の限界集落の人口増加であるし、そもそもの出発点で言えば、満員電車に乗って会社に行ってストレスを溜めなくても代替手段はあるというメッセージであった。ただ、pha氏は誰も攻撃していないし、本人が働きたくないから働かなかっただけであり、日本社会という大きな物語に対しては何も言及していない。つまり、大きな物語と対決しないことが小さな物語を作る上で重要なのである。

 

国外で言えば、ケニアでは女性だけの村を作り、女性だけで自活しているコミュニティがある。FGM(female genital mutilation、女性器切除手術)は世界中の人権活動家から非難され続けている問題だが、内政干渉であるし、宗教的、文化的背景を理由に説得するのが難しいのも実情である。前述したように圧力で無理矢理に押さえつけたところで人間の心のありようはそうそう変わるものではない。そうなると女性達が勝手にFGMの暴力から逃げるために生活を変えてしまうほうが手っ取り早いのである。ケニア人の解決方法は、女性達同士でしか住まないことであったのである。

 

courrier.jp

 

何度も言うが、大きな物語と正面衝突を起こしても死人が出るだけで何にも良いことはない。それならば、女性だけが住むコミュニティを作り、女性だけの金儲けの仕組みを作り、女性だけの福祉を作り、生活をデザインしていけばいい。少しづつでも拡大していけば時間が経つにつれ我々が主流派になるのだ。

 

ただし、現実的には社会問題や政治問題にあれこれ言うことしかできないし、生活を変える勇気など欠片もないのが大衆のマジョリティであろう。**他人の心のありようを変えるのが難しいように、自分の心のありようも変えるのは難しいのである。**よって近代主義者同士の争いは今後も続くのであろう。私たち戦争大好き!!!!!!

 

www.youtube.com

*1:あれは社会自由主義者であり、本来のリベラリスト自由主義者とは異なる思想

*2:社会学で言うところのバックラッシュ

障害者のキャリアについて

結論から書く。真っ当な給与を得たいのならば高級ホワイトカラーになるか、独立の二択になる。

 

まず、私も発達障害当事者である。

 

まず大前提として企業は仕事が出来る人間が欲しい。仕事が出来れば高校生だろうと老人だろうと外国人だろうが犬だろうが拘ってはいない。宇宙開発スタートアップがロケットを宇宙まで飛ばすためにエンジニアを必要とするならば、アスペルガーだろうが、英語が話せないアジア人だろうが、「宇宙までロケットを飛ばしたい」という課題解決をしてくれる人間ならば誰だって欲しいのである。

 

東京大学の学生にASDが多いという実しやかに囁かれている噂がある。大学教授や医師に変人が多いという偏見の類ではあるが、卒業後に食いっぱぐれることが少ないのは紛れもない事実であろう。

www.j-cast.com

 

要するに医師免許を持っていれば、発達障害だろうがアルバイトで時給1万円以上の収入を得ることが出来るからだ。コミュニケーション能力が壊滅的でも仕事を得れる経済状況であるのだ。現実の病院でも臨床が無茶苦茶な医師に出会うことは珍しくないのは、当直明けに都市圏から地方の病院に出張させられるという激務が一般市民に知れ渡っているように、それだけ医師が市場的に少ない存在とも言えるからだ(医師が足りていれば無理な労働をさせる必要がない)。

 

一方で日本全体の労働者の数は年々増加している。ニュースでは人手不足が叫ばれているが、実際のところは人材の過剰供給気味であると感じている。要するに誰も給与が低く休みが少なく福利厚生も少ない中小零細企業に行きたくないからだ。そして大学生の数も年々増加気味である。大企業ホワイトカラーの少ない椅子を争う人々でいっぱいということである。

 

https://univpressnews.com/2020/06/12/post-5726/

https://shukatu-man.hatenablog.com/entry/syukatu-magnification-of-large-enterprises

要するに何もスキルを持たない普通の人々(定型発達)はコモディティ化しているのである。有り体に言ってしまえばほとんどが替えが効く人材であり、市場的に余った存在でしかないのだ。会社の仕事は大別するとビジネスサイド、開発サイド、オペレーションサイドに分けることが出来るが、オペレーションサイドの人間が一番余っているのが日本の状況である。だから、健常者ですら人材市場で買い叩かれている。なおオペレーションサイドが一番コミュニケーション能力が必要であり(逆に言えばコミュニケーション能力さえあれば良い)、発達障害者には最も苦手な仕事であると私は睨んでいる。

 

そう考えると企業側から見たときに開発も出来ないビジネスも出来ない発達障害者を雇うメリットはない上に、会社のマネジメントを変えるメリットにもならない。もしも本当の意味で人間が足りてなければ学者や行政が提唱するソーシャルインクルージョンも成り立つが、人間が余っている市場環境で社会包摂するインセンティブは存在しようがない。

 

だから、法律で障害者の法定雇用率を義務づけても農園に送りつけて農園で採れた作物を障害者本人が消費するという脱法スキームが作られるはめになる。土や野菜に触れられて精神の健康に良いというコピーライティングには吐き気がする。私は農福とか考えた人間は地獄に落ちれば良いと思っている。これに真っ当なエビデンスはあるのだろうか?詳しい方は教えて欲しい。おそらく精神疾患作業療法技術の影響と推測しているが、発達障害知的障害者にセラピーは必要はない。病人ではない人間に薬を飲ませて何になるか?

 

nordot.app

plus.spool.co.jp

 

もうお気づきと思うが、要するに物を作れる側に回るか、物を売れる側に回るのが無難な戦略となる。これはハイクラス転職サイトのビズリーチなどを見ているとはっきりとわかるが、単なるオペレーションの仕事で高いバリューの求人がないことに気づくだろう。あったとしても会計士や税理士の資格を求められるCFOやビジネスサイドに近い人事責任者などで人材市場的には貴重な類の求人であることに気づくだろう。

 

www.bizreach.jp

 

発達障害者は天才が多い!という俗説があるが、人材市場的に貴重な存在でなければ、B型作業所で時給100円の生活になり、運が良く大企業の障害者採用に受かっても農園送りにされて月給13万円で社会的に生殺しにされるわけである。

 

そして、そういうゲームを認めたくないとなれば、独立、起業、フリーランスという道になる。つまり、発達障害者に中所得という道は存在しないのである。高所得か超低所得の二択しか存在しない。

 

発達障害者は異常な人生を楽しんで生きていきましょう(雑)。

左翼活動家の態度にはうんざりという話

当方自営業なので、批評的な文章を書いている暇があれば事業資料を作っているほうが金にもなるし、世の中に対して建設的ではあるが、colaboの騒動を見ているとうんざりした気持ちになり様々な思考を巡らせてしまったがために本稿を書いている。

 

まず自分のポジションを明らかにする。colaboの仁藤氏とは同世代である。また自分自身は人文学部出身であり文化人類学社会学現代思想を学んでいた。要するに左派としてレッテルを貼られるような立場である。

 

そして本題だが、何がうんざりかと言えば日本の右派も左派も思想的にはねじれた存在であり、戦後以降は互いにマッチポンプとして存在していたことである。内田樹氏が以下のURLで如何に日本の活動家がねじれた存在であるか説明している。例えば、外国の基地が自国にあることを容認する右派は日本にしか存在しないことを指摘している。

 

blog.tatsuru.com

 

上記のURLでは自民党について語っているが、日本の左派の側もねじれを抱えている。もちろん左派は明確な統治構造を持たないために分派が数多く存在する。キリスト教カトリックは一つしかないが、プロテスタントは様々な宗派があるようにレッテル張りとして「共産党!」「左翼!」と一様に語るのは難しい側面がある。その上で私の意見を見てほしい。

 

彼らは自由や民主主義や人権を声高く主張することである。これがねじれである。

 

なお旧東側諸国は、自由も民主主義も人権は存在しない。そもそも人権とはヨーロッパで市民革命以後に出来た概念であり、共産主義の言葉を使えばブルジョワジー革命以後に出来た概念である。

 

現在の日本でも左翼とレッテル張りされる人々が声高く主張する人権とは多くの欺瞞を抱えたものである。例えば、日本人の大半の人間が利回りのみで生活できるような財産などないが、財産の保障が人権の一つである。大半の人間は自分の労働力を企業に提供してお金を稼ぐしかないにも関わらず財産とは一体何なのだろうか。

 

職業選択の自由というのがあるが、自らの意思で好みの職につけている人間が日本にどれだけいるだろうか?学問の自由というのもあるが、私のように社会的に全く必要とされていない経済的価値が低い学問を学んでも就職活動においては評価されない。誰もが小さい頃から教師に「将来何になりたいか?」と問われる。果たしてこの文化がいつはじまったかはわからないが、少なくとも職業選択の自由という意味で問いているのは間違いないだろう。しかし、本人が望んでいるからと言え将来的に金が稼げそうにもない学問にも関わらず借金(奨学金)をさせて学べることが正しいのだろうか?

 

人権の包括的権利として生命・自由・幸福追求権や法の下の平等があるが、知的障害者にも適用される。しかし、知的障害者が他人に暴力を振るってもお咎めなしである。一方で健常者が知的障害者に暴力を振るうと警察沙汰である。友人が知的障害者施設で働き始めてから「植松聖の気持ちがよくわかった」と言っていたのが印象的である。もちろんそういった施設の管理者は障害者の権利には煩くても労働者の感情には無配慮であることが散見される。

 

上記のようなことを記述すると左翼的な方々が反射神経的に「優生思想だ!!!」と騒ぎ立てるが、そもそもとして市民革命後、つまり近代国家で、更に言ってしまえば自由や民主主義や人権を実際に規定したドイツ共和国のヴァイマル憲法が生み出した問題は現代社会においても何一つ解決出来ていない。ただ単に臭いものに蓋をしているのが現実である。だから、戦後から約80年経っても反ユダヤ主義反知性主義反自由主義も優生思想も何度押し込めても墓場からゾンビのように復活する。

 

障害者福祉の撤廃を促すナチス優生学のポスター(1938年頃)「60.000ライヒスマルク。これがこの遺伝性疾患者の生涯に民族共同体が負うコストです。同志よ、これはあなたのお金ですよ。」引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/生きるに値しない命

 

知っている方も多いと思うが、ナチスユダヤ人だけを虐殺したのではない。国家のお荷物になる生産性のない人間を虐殺していったのである。前述の知的障害者はもちろんのこと、精神障害者などの労働不能者及び拒否者なども含まれていた。悪名高いガス室で大量に殺害をした。要するに福祉の負担になる人間は国家から効率的に科学的で工業的な手段で「削除」したのである。人権の保障をされた、福祉の対象であるために殺されたのだ。またガス室という科学的で工業的な手段も資本主義社会でないと実行できないものである。

 

昨今の日本社会を見返して見ればご理解いただけるように、福祉の負担になっているだけの経済生産性のない高齢者の批判で溢れかえっている。植松聖は知的障害者は生きていても価値がないために殺害した。杉田水脈議員がLGBTは生産性がないと言った。

 

生活保護者に対する批判も絶えることはない。彼らには経済的生産性がない。故に国家が「健康で文化的な最低限度の生活」を保障する。もしも保障など無ければ非難もされないのであるが、その場合は路上に大量のホームレスが溢れかえるようになる。ちなみに産業革命後にスラムのルポルタージュが様々書かれているので興味のある人は読んでみてほしい。

 

企業の生産性の足を引っ張りそうな発達障害者は特殊な就職試験で発達障害と見抜き排除し、生産性のない彼らは国家のお荷物になる。そして普通の人間から憎悪の対象を向けられることになる。なお私自身も発達障害であるので他人事ではない。

 

そしてナチスソ連のような社会主義国家も自由と民主主義を標榜する資本主義国家が誕生した故に発生しているということだ。もともとカール・マルクスは人類の理想国家である共産主義国家は段階を通じて発展していくと主張した。要するに欺瞞に溢れた不完全である自由と民主主義の資本主義国家から誰もが幸福になれるようなユートピアにいずれ到達すると信じられていたわけである。よって、資本主義国家の発展形であるナチスソ連のような国家も自由も民主主義も人権も否定するような国家になっている。

 

歴史は繰り返す。今もたいして変わっていない。人権があるが故に、福祉があるが故に、生産性のない社会的弱者は憎悪の矛先となる。

 

本題に戻るが、日本の左翼が声高く主張する人権は一体何なのだろうか。もちろんそれは分派によって異なるが、女性の権利、在日韓国人の権利、同和部落の権利、沖縄人の権利、労働者の権利、こどもの権利・・・など様々なものがある。colaboの件に関して言えば、家出少女の権利や女性の権利などが該当すると思うが、人権を主張する割には家出少女をオルグして辺野古基地問題に連れていくなど個人の思想信条の自由を思いっきり侵している。またよく炎上するように人権の一つである表現の自由に関しても強く干渉する。歴史を辿ればわかるように、そもそも人権や自由を否定するような立場であるので当然と言えば当然である。これが日本の左翼のねじれである。正々堂々と暴力革命で全ての権力を簒奪し独裁国家として好きなように作り直すと言ってくれたほうが筋道は立っているのであるが、現実には左派の多くが自由や民主主義や人権を主張するのが日本の政治状況である。

 

一方で自由民主党が提示する憲法改正草案からわかるように彼らが自由や民主主義や人権を守っている立場であるかと言えば微妙である。自民党ロビー団体明治憲法を復活させようと試みる日本会議などがいるからである。党名が自由で民主主義を標榜する名前であるが、政治的思惑は真逆である。これもねじれである。

 

日本国においては右派も左派も本質的な部分で自由や民主主義や人権などを守る思想的背景が存在しない。ねじれた存在同士が綱引きをし合って自由や民主主義や人権などを保っている状態である。そして、しばしば一般市民に対して嫌がらせとしか思えないことを行うので都市圏の市民には両方とも蛇蝎の如く嫌われれているのが共通の感覚であろう。自民党に関しては政治と金、そして昨今騒がせているように普通の市民感覚からしたら到底理解できないようなカルト宗教や大日本帝国憲法復活を目指すロビー団体との付き合いがある。それを追求する左派も同じような問題を抱えていて、例えば行政や大企業などの大きい組織に必ず存在する労働組合などは社員から会費を徴収し集まった金で誕生してしまったのが労働貴族である。働かないで組合運動しかしていないが大金を所有している人間である。これに悪感情を抱かない市民はいない。

 

もともと政治的に連動して福祉活動を行う左派活動家は上記のような乞食根性で行うのが伝統であり、colaboの件しかり藤田孝典氏しかりある意味で伝統的な左派活動家の行為と言える。だから昔から市民のマジョリティーからは嫌われている。構造的には今に始まった話ではない。労働者を守る側の左派にも関わらず労働者から搾取すると発言するのもねじれである。

 

右派も左派もいくらでも悪口は書けるが、両方蛇蝎の如く嫌悪しているのが市民のマジョリティである。そこに目をつけたのが外資コンサルタント会社マッキンゼー上山信一氏であり、中央集権に対しても強く不満を持っていた関西圏で大阪維新の会を立ち上げて成功することになる。東京においても小池百合子氏が同じことを実行するが中途半端な結果になってしまっている。しかし、都民ファーストが大勝利した構図は大阪維新の会と基本的には同じである。

 

個人的にとてもうんざりするのは、市民から嫌われているにも関わらず内省せずに突き進む一部の左派の方々であり、彼らの言葉を使えば自己批判すべき状況と思うが、そのような様子は一切見受けられない。そして赤い貴族労働貴族問題が令和になっても発生するとは思っていなかった。総括しないのか?

 

ねじれた存在同士が綱引きをし合っているのが日本の政治状況と書いたが、東浩紀氏が令和になった節目に「平成という病」という記事を発表している。

 

それはつぎのようにいいかえることもできる。平成は祭りの時代だった。平成はすべてを祭りに還元し、祭りさえやっていれば社会は変わると勘違いをし、そして疲弊して自滅した時代だった。 その性格は政治にはっきりと現れている。平成はじつは活力に溢れた時代だった。平成ほど「変革」「改革」が唱えられた時代はない。平成は、盛田昭夫石原慎太郎の『「NO」と言える日本』の出版と同時に始まっている。昭和の終わりは冷戦の終わりと重なっていた。平成の始まりは世界秩序の転換期の始まりであり、多くのひとが改革を夢見ることができた。

-中略-

けれどもその楽観は長くは続かなかった。そもそもそのような「改革」はすぐに効果が出るものでもなかった。一九九七年をピークに、平均給与は下がり始めた(国税庁調査)。生活はいっこうに楽にならず、人々は長引く不況に疲れていった。格差が話題になり、ニートワーキングプアといった言葉が流行語になった。そして日本の競争力は坂を転がるように落ちていった。九〇年代半ばにはアメリカの名目GDPは日本の一・五倍ほどだったが、一〇年後にはその差は三倍にまで広がってしまった(ちなみに本稿執筆の時点では差は四倍以上に開いている)。日本人はようやく、だんだんと、もしかしてこの国はダメなのではないかと思い始めた。

-中略—

安倍晋三は二〇一九年一一月には桂太郎を抜き、憲政史上最長の在職日数の首相となる。そして、そんな政治的安定性と引き換えに、日本の国力はますます下がっていった。GDPは中国の半分以下となった。団塊ジュニアは子どもを作れない年齢になった。日本の技術が世界を変えるとはだれも信じなくなった。貧困や児童虐待が連日報道され、嫌韓や嫌中のようなヘイトもまかりとおっているが、多くの日本人はそんなことに悩みすらしなくなってしまった。それでも東京五輪を控えて株価だけはあがり、日本はすごい、日本は変われる、日本はまだまだいけるという本ばかりが売れ続けている。

www.bookbang.jp

 

変革を求めて祭りを行なっている間に勝手に自滅していったのが現在の日本であると評してる。私が左派の活動家が自己批判したほうが良いと思うのは、こういう部分もある。互いに足の引っ張り合いを行なっている間に日本社会はどんどん沈没していく。そして必然的に左翼が守りたい社会的弱者もどんどん増えていく。自民党も左派勢力も何も状況を変えれない。自分が小学生の頃から少子化問題は叫ばれていたが社会問題は後回しのままであり日本経済も横ばいであり、何も変わらないまま緩やかに悪化し沈没していく。はじめは靴の底が濡れる程度の浸水が、今や靴下までに届くようになった気分である。じわりじわりと真綿で首を絞めるような速度で浸水は進んでいく。明日は今日よりも悪くなる。そんな時代になってしまっているのだ。

 

colaboの騒動も金周りのいい加減さは左派活動家の伝統であり、またやっているのか、と呆れるばかりである。裁判の結果などもはやどうでもよい。既に政治的に敗北している事柄であり、旧来の方法では市民のマジョリティに嫌われるという事実を自己批判してほしいが、東浩紀氏が指摘するように対話は難しそうに思える。平成の祭りでは数々のデモが行われたが、政治的に成果を残せたものは何一つない。例えばシールズが国会議事堂前で民主主義を問うて当時の首相の安倍晋三氏が変わったのだろうか?いつ頃そうなってしまったのかわからないが、どちらからそうなってしまったのかわからないが、それぞれが勝手に自分たちの主張を行い、対話というものが消滅したのも平成の時代だった。Twitterで左翼活動家が対話を拒否し相手をブロックしている様子を見ていると既視感を覚えてしまう。人間が対話を拒否すると問題解決は不可能になる。ただし、唯一解決方法はある。物理的な暴力である。人類最悪のソリューションである暴力である。昔からデモなんか意味はないと冷笑する人々はいるが、山上徹也氏が放った手製銃の二発の弾丸の政治的効果を見てしまえばデモを笑っていたのは正しかったと思わざるえない。暴力の時代になってしまったのである。国葬も散々批判されたにも関わらず強行された。対話は不可能であると受け取った方も少なくないと思う。銃弾が多く飛ばない静かな内戦、そう表現しても良いかもしれない。

 

00年代の終わり頃か、10年代の始まりごろか忘れてしまったが、いわゆるカルチャー誌の間で経済状況の苦難を乗り越えていくために「サバイブする」というライフハック的な言葉が流行り始めた。90年代にバブルが弾けて世紀末ということで終末論が流行ったが、21世紀に入ってからは世界破滅後にサバイバルを行なっている状況と思い始めている。バベルの塔は弾けてしまい言葉は互いにばらばらになり、意思の疎通は困難になる。問題解決を行いたければ暴力に頼るしかない日本の暗黒時代である。ゲームのFalloutか?

 

危惧しているのは暴力の矛先が社会的弱者に向かうことである。現状でも経済生産性のない人間にはヘイトが溜まっているが、いつそれが爆発してしまうのか。ナチスのT4作戦のような露骨な解決策は取らないと思うが、安楽死政策が実行される可能性はあると思っている。マイルドなT4作戦である。死にたいと思っている社会的弱者も利用できるし、末期患者も使えるようになり、法的な手続きを追えば経済的事情で意思疎通ができない人間を殺せるようになれるかもしれない。そして、自分自身も他人事ではなく、ある種の社会的圧迫により安楽死を選ばされる可能性は十二分にある。その時に旧来の左派活動家及び政治家は適切なソリューションを提示することが出来るのだろうか。今の現状を見る限りではとてもでないが彼らには期待できない。

 

P.S.

 

断っておくと私は対話を好みます。

漫画「生活保護特区を出よ」から考える役立たず扱いされた人間の生き方

まどめクレテックの「生活保護特区を出よ」の一巻と二巻が同時に発売された。あらすじは以下の通りである。

貧困、差別、格差をめぐる癒しと革命の物語。

1945年、大きな戦争により国中に浮浪者があふれ荒廃した日本は、福祉と治安維持のため二つの政策を行った。

一つは東京を復興し新しい都市「新都トーキョー」をつくること。
もう一つは、能力不振や病気、障害等により自立困難なものに国が衣食住、生活を保障する「生活保護特区」(俗称マントラアーヤ)を制定すること。

2018年、新都トーキョーの一般的な中流家庭で育った高校生フーカのもとへ「特区通知」が届く。この国で何となく生き、何となく幸せになれると思い込んでいた彼女にとって、それは青天の霹靂だった……

 

http://to-ti.in/product/mantra-arya

 

 

 

要するにパラレルワールドの日本を舞台にしたコミックである。生活保護をテーマにした漫画と言えば、柏木ハルコの「健康で文化的な最低限度の生活」があるが、あちらはルポルタージュに近い形で社会的弱者を描いたのに対して、本作はフィクションに近い形で現実の社会的弱者を描こうとしている。

 

ただ、柏木ハルコの「健康で文化的な最低限度の生活」が表すように生活保護者というのは様々な理由で社会的に排除され孤独であることが多いのだが、「生活保護特区を出よ」の架空の日本では彼らは孤独ではない。社会的にダメな人たちが集まり、一種のアジールとして機能しているコミュニティ(ただしそのアジールは政府によって強制されたものではあるのだが)を舞台にしている。

 

ハリジャンぴらの氏の作品解説によれば、そのコミュニティは「肥溜めは意外と暖かい」と表現している。*1

 

明らかに大阪の西成をモデルにしたスラム街を舞台に社会的に必要なくなった人間が棄民として捨てられてオルタナティブで文化的な生活を行っていく。小汚く貧困的な環境でダメ人間同士が安い酒を飲み、処方箋ドラッグをやり、古本を一日中読んだり、何か創作をしたり、拾ったゴミを改造した楽器で音楽を演奏して踊ったりするなど、結局、その様子には既視感があり、これはインターネットやサブカルチャーを好む人には知られているが、京都大学の寮文化から列なるギークハウスや山奥ニート達の共同生活とダブってしまう。

引用:「生活保護特区を出よ」第296ページ目中段

 

京都大学吉田寮の日常 

https://news.yahoo.co.jp/feature/1014/

ただ、違うのは後者は自ら選んでアジールに避難しているが、前者は政府によって強制的に隔離されている点である。

 

よく出来たフィクションというのは良い意味でも悪い意味でも現実を表してる。近代社会というのは工業化によって発展したが、製品を大量生産するためには標準化という枠組みを作る必要が出てくる。要するに近代以前は人間が一人ずつ手作業によってモノが作られていて当然ながらモノの品質にはバラつきがある。しかしながら、近代社会の工業生産では、製品を大量生産するためには仕様と規格を作る必要がある。製品を吐き出す機械の動作はワンパターンであるからだ。*2

 

社会学者が工場と学校の共通項を分析するように、学校教育というのはほんの少しのエリートと、大量のマンパワーを必要とする工場での労働者や軍隊の兵士を作るためのものである。そして、それは工場の機械が吐き出す製品と同じように仕様と規格があり、学校で教育を受ける人間の品質も均質化する。

 

しかしながら、機械が同じモノを吐き出すといっても何かしらのミスによって不良品が発生しゴミとして捨てられる。同じように、学校教育もそこから繋がる職業人生も仕様と規格から一定の範囲を外れたものは排除されるのだ。統計学的に言えば正規分布の左側のことである(そして、皮肉なことに統計学的に正規分布の右側の特殊な値である者がエリートとして研究者、官僚、将校などになっていく)。

 

生活保護特区を出よ」の主人公も学校成績が不良のため特区に嫌々ながら送られる。そして、明記はされていないが政府が決めた就労移行支援(まるで現実に存在するような)を続けていけば特区を脱出できるために清掃の仕事に就くのだが、学校生活で運動も勉強もダメだった主人公が適応することは難しかったのである。当然ながら、清掃などの業務も工場の生産のように仕様と規格があり、統計的にエラーと認定された人間が太刀打ちできるはずがないのだ。

 

引用:「生活保護特区を出よ」第31ページ目中段

 

主人公は自分の仕事の出来なさに自己嫌悪になり、自殺しようとするが同居人に止められて病院(精神科)に行くことになる。

 

引用:「生活保護特区を出よ」第311ページ目上段

 

ベルソムラは眠剤パキシル抗うつ剤、インチュニブは発達障害用の薬である。劇中のその他の様子からも発達障害的な様子は窺える。*3

 

結局、主人公は特区を脱出することを諦めて一日中古本を読む生活になってしまう。要するに労働者として機能しないことを認識したのであるカール・マルクス的に言えば生産手段を持たず自らの身体のみを資本とするものが労働者(プロレタリアート)であると定義したが、主人公の場合は労働者としても機能しないのである。故に生活保護者なのであるが、幸いなことに主人公は現実の生活保護者とは違い、孤独ではない。人間の集まりの中にいるのだ。人間が一人では経済は発生しないが、人間が複数人集まると経済活動は発生する。そして、警察の取り締まりや法規制も無ければそれは活性化する。主人公は(現実の生活保護者の中にも存在するように)不均質で非公式な経済活動に身を置くことになる。何か自分が出来る仕事はないか探すのである。特区での仕事は処方箋薬を路上で売ったり、女性や子供の送迎を行ったり、海賊ラジオを行うものや、シノギといえるようなものばかりだが、プロレタリアートとしての機能を失ったことを認識してから不均質な生産手段のようなものを獲得し始める。

 

pha氏が提唱したギークハウスは既に解散済だが、ギークハウスに関わっていた様々な面々も通常の組織で働きたくない or 働けない人間達が集まっていた。そして、よくわからない曖昧な人間が集まっているうちに、曖昧なシノギを見つけ生活費を工面している様子をインターネットで発信していた。誰が言っていたか忘れてしまったが、彼らは個人事業主じゃん、と指摘していたのを覚えている。そして、彼らの中には全国流通の週刊漫画雑誌で連載をはじめたり、インディーゲームを大ヒットさせたりするようになった。

 

そもそも今の時代はマルクスが言うブルジョワジー階級が占有している生産手段の一つである機械は安価に借りることもできるし、また機械を作っているのも人間であり、機械を作るための方法も公開されている。そして工場すらも所有しないファブレスという業態も普通になっている。それは服飾から半導体メーカーまで多くの企業が取り入れている。もちろん知識も大部分は公開されている。

 

結局、今の時代において生産手段とは何なのだろうか?となってしまう。物を作るだけならば誰でも出来る時代になっている。もちろん大規模で難解な製造業のような話でなくても、本来、人間は何かしらの生産能力を持っている。土地を耕し種を投げれば野菜が育つ、汚れた部屋は掃除できるし、路上で何かを売ったっていい。「生活保護特区を出よ」の主人公も政府が与えた清掃の仕事は早々と挫折してしまうが、住民の部屋の掃除は出来てしまっているのだ。

引用:「生活保護特区を出よ」第213ページ目上段

引用:「生活保護特区を出よ」第216ページ目上段

 

学校教育や法律によって生産能力が抑えられ労働者としての内面性を仕込まれているからことで個人の能力が阻害されているのではないだろうか。

 

そうなってくると世間的に役立たずと烙印を押した人たちを企業に再び雇わせていく就労移行支援施設という存在に疑問が生じる。ひきこもりの支援施設なども同様である。もちろん全てに意味がないとまでは言わないが、日本社会にいることで自然と身についてしまった労働者性というものから解放してあげるほうが有意義ではないかと思ったりもするのであった。

 

 

 

*1:トーチweb

to-ti.in

*2:また近代以降の軍隊も、工場が製品を大量に作れるように、工業化以前とは比較にならないレベルの大量殺戮が可能になった。

*3:私事で恐縮だが、私も発達障害当事者であり、「脳がバグる」というのは非常に的を得た表現であると感心してしまった。

イジメは学校構造の問題ではないのか?障害者イジメ被害者の当事者がイジメについて語る。

 
この数日間、小山田圭吾氏の障害者イジメ問題の炎上が続いている。僕は発達障害でイジメ被害者で少なからず当事者性があるわけだが、僕が思っているのはファンもアンチも両方とも僕のことをイジメそう*1ということだ。

 

僕は特性から生じる脳機能の問題で空気が読めなくて身体性(身体の動きが不自然)も不自然だ。ようするに空気の読めないキモい動きをする人間なわけだ。どういうふうに空気が読めないかといえば、小山田圭吾氏がオリパラ音楽担当に起用されたと聞いた時に炎上している人を尻目に「ははは、またやってら〜*2コーネリアスのうんこネタみんな好きだなあ」と呑気に言っているぐらいだ。みんなが真剣に話している時に笑ってしまったり、不用意な発言で怒らすというのは日常茶飯事だ。みんながなぜ怒っているか感じることが上手くできない。もちろん後天的に身につけた処方術で「小山田圭吾氏を起用した広告代理店の人はリスクとか考えなかったのかな?」と思うぐらいには常識を身につけてはいるのだが、これは単なる後天的に身につけたパターン認識なので咄嗟に反応したり、共感したりすることが非常に苦手である。不器用な人間なのである。故にいじめられる。

 

普通の人は強い共感性を持っていたり、他者に対する関心を強く持っていることが多いのだろう。故に本質的に自分自身に無関係だとしても「イジメ許さん!吊し上げろ」となるし、擁護する側も何らかのコメントを出して他者に対して共感や関心を示している。

lineblog.me

イラストレーターの中村佑介さんの記事がバズっていたが、中村氏は若い頃から小山田圭吾氏の人格に疑問を抱いていたが、小山田氏の結婚や出産でコーネリアスサウンドが変わったと言っている。このような人がいるから、ロッキンオンジャパンクイックジャパンが二万字インタビューで音楽とは無関係な話を長々と書き散らしパブリックイメージが作られてセールスにも繋がっていく。それが嘘か本当か定かでないのに。Twitterで散見されるように、そしてメディアで喧伝されるように、当時の音楽産業に関わっていた人間が当時の文化事情を考えてくれと釈明していますが、結局、読者もグルであり、自分の人生に当て嵌めて共感して音楽を消費する。あの音楽は自分にとって良い、あの音楽は自分にとって悪い、そんなふうにある種の政治的力学が働いて権力や秩序といったものを強化されていく。

 

アンチに取っては小山田圭吾の音楽は「障害者イジメをする悪い奴だ」と他者に関心を持ち、悪い音楽となり、いまやYoutubeコーネリアス関連のコメント欄はひどい有様になっている。本質的に自分自身の人生に関係ないのに関わらず。

 

権力や秩序は人によって好みが違うし、それは移り変わりゆくものであるし、それは学校のクラスルームも同じことで、いじめ問題の専門家の内藤朝雄先生は著書で以下のような理論を用いて説明している。被害者と加害者といった二項対立を超えて構造的に問題があるのではと論じている。その一つとして制度・政策的な変化による秩序の変化について以下のように語っている。

 

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引用「いじめの社会理論」内藤朝雄 P-115 

市民社会的な制度・政策的マクロ環境Aから、構造的に共同体を強制する文化大革命隣組や大日本少年大といった制度・政策的マクロ環境的Bへとマクロ環境が変化すると、生活環境におけるローカル秩序の生態学的布置が太極的にβ-秩序優位になる。そして、β-秩序優位の生活環境で「あたりまえ」の現実感覚が変容し「ニコニコしていたおじさん」が怒鳴り散らし「卑屈」な少年が暴君になる、といった出来事が社会のすみずみで蔓延しだす。

(中略)

たとえば日本の敗戦とともに、隣組で怒鳴っていた迫害者は「にこにこ愛想のいいお店のおじさん」に戻り、少年団の「小権力者は社会が変わると別人のように卑屈な人間に生まれ変わった」(中井、1997、22ページ)また学校の集団生活で残酷ないじめにふけっている者ほど、市民社会の論理が優勢な場面では「おとなしく、存在感の薄い」少年に変貌する。マクロ環境の変化と共にこういったことが社会のすみずみでいっせいに起こるのである。

 引用「いじめの社会理論」内藤朝雄 P-114,117 

 

 

ファンもアンチも属している秩序が違うだけであり、またそれは世の中が変わることで被害者が加害者にも回るし、加害者が被害者になることもあり得る。何らかの権力や秩序に深く関与出来るということはすなわち暴力に繋がることがあるということだ。そしてそれは風見鶏の如く状況によって変化するし、令和日本も世の中が変化して、手の平を返す人たちは山のようにいる。例えばかつて会社で公然として行われていたパワハラなどだ。
 

 

 

SF作家の樋口氏はそのような人のことは軽蔑するし一緒に仕事をしたくないと言う。もちろん見方を変えればそのような同僚は既存秩序の変化に合わせて適応しているとも言えるし、一方で適応できない人間は不器用な人間として生きにくいのかもしれない。はだしのゲンの鮫島みたいな厚顔無恥な人間は生きやすく、戦前戦後からもスタンスを曲げないゲンたちは生きにくいのかもしれない。ようするに空気を読むという能力が強い人は強い秩序の匂いを嗅ぎ分けることが得意であるし、共感することも得意なのだろう。というか、世の中的には鮫島みたいな人が一般的であるのだろう。例のいじめ問題について当時のライターや文化人も「当時から良い気持ちはしなかった」と手のひらを返すように。もちろんそれははだしのゲンで鮫島が醜悪な人物として簡単に認識できるが、現実の自分を見つめることは何をするにしても難しい。現実問題として私たちは無意識に手のひら返しを行うことが多いのだろう。学生時代にイジメをしていた加害者も卒業してからは「なぜあんなことをしてしまったのだろうか」と夢のように感じてしまうように。

人間が状況や構造によって暴力的や隷属的になるのはよく知られていることである。インターネットの民が大好きなスタンフォード監獄実験である。esという映画にもなっている。

スタンフォード監獄実験 - Wikipedia

 

前述の内藤朝雄先生は世界の国々の教育政策タイプを学校共同型、学校教習所型、地域軍団型と区別して説明している。若者の生活をトータルに囲い込むことを期待されるタイプが学校共同型であり、もっぱら勉強を教えることを期待さえるタイプが学校教習所型であり、学校ではなく地域集団のほうで集団主義教育をするタイプが地域軍団型である。もちろんお気づきの通り日本の教育は学校共同型である。内藤先生は明確に共同型を批判している。

教習所型の場合、基本的に学校は乱暴なことをやっても大丈夫な居場所ではない。学校は共同体とみなされないので、自分たちのムカつきを受け止める容器、あるいは包み込み子宮のような空間とはみなされない。暴れたらあっさりと法的に扱われ、学校のメンバーシップもあっさりと停止されがちである。それに対して日本は、学校共同型の極端に突出したタイプであり、その極端さが「日本的」と呼ばれてきた。

(中略)

共同体を無理強いされた者たちのあいだで蔓延する。なぜ一緒にいなければならないのかわからない者たちと、心理的な距離をちぢめさせられ、共に響き合う身振りを毎日やらされていると、こういう未分化な憎悪が蔓延する。共同型の学校では、ネズミや鳩を檻の中でむりやりベタベタさせると通常では考えられないような攻撃性が生じるという、あの過密飼育実験を、わざわざ税金をドブに捨てながらやっているようなものである。

引用「いじめの社会理論」内藤朝雄 P31

 

内藤先生は共同型学校がどのように歴史的に構築されてきたかを説明し、構造的に暴力が発生しやすいと語っている。構造的に暴力が発生しやすく、前述したようにクラスルームに大きい秩序が存在したら小さい秩序はイジメに合う。そこに小さい秩序となりやすい障害者を放り込んだらどうなるのだろうか。 

http://www.wako.ed.jp/e2/integration/

小山田圭吾氏の出身校である和光学園では共同教育という名目で実際に行われているそうだ。

ハンディをもった子にとっては民主的な能力などの発達を促すこと、健常児については少数者・弱者の立場に立ってものを考えられる力をつけること、それは人間としての発達に大きな意味があることだと考えています。

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共同教育 – 和光鶴川小学校

昨晩、和光学園の出身者の方が告発のnoteを書いていた。

note.com

上記のnoteによれば理念とは裏腹に障害者は暴力に合い、教師は見て見ぬふりをしていたそうだ。内藤先生に言わせれば「当然の帰結だよ」と言いそうだが、内藤先生がいじめを無くしたかったら以下のようにしたほうが良いと結論を出している。

密教育の檻を解体し、各人が自由に距離を調節し、学校のねばりつく関係性の襞に対して(やろうと思えば)よそよそしく距離をおいて生きることもできる権利を保証するのが、単純明快な正解である*3。しかしこの正解は、一部の教育系の人たちの「國體」を否定するものだ。彼らの深層の価値指向にとっては、若い人たち個人個人の自由や人権や生命身体の安全よりも、大いなる命としての教育共同体の方が大切である。

引用「いじめの社会理論」内藤朝雄 P34

上記と似たような主張のツイートもあった。

 

結局、このような構造を作った側が悪いのであり、加害者と被害者といった単純な二項対立自体がナンセンスである。もちろんイジメ被害者の全員がそういうふうに思うように出来ればいいが・・・。以下の言葉で締めたいと思う。全人類が以下の言葉のように出来ないからイジメの報復も起きるし、戦争も止められない。しかし、目指すべき地というものはある。

神がすべての人を愛するように、あなたの敵をも愛せ。

引用:新約聖書「マタイによる福音書

 

*1:もちろん小山田圭吾も僕のことをいじめそう(笑)

*2:音楽ファンなので2ch小山田圭吾スレを覗いたことがあるから

*3:また具体的な施策・政策の提案は本著で主張している。しかし、2001年の著書であるため、内容がアップデートされている可能性が高いので興味がある方は内藤先生の最新の動向を追ってもらいたい。

共同創業者に2回失踪されたが懲りずに起業する件について

共同創業者に二回失踪されているというお話です。

 

大学時代の知人のKくんが在日ファンクというバンドのマネージャーで活動していました。そして活動が実を結び、コロンビアにスタッフごと買い取られるということがありました。その一連の流れを見ていて「あ、僕も出来るんじゃない?」と思って友人のバンドをマネージメントして売れさせようとしたんですよね。折角だったら最高に良いものを作りたいと思って、レコーディングエンジニアには中村宗一郎さん、ジャケットのイラストは本秀康先生、デザインはスケッチ・オブ・デザイン(現アルムナビ取締役)の勝又社長にお願いしました。キャッチコピーは九龍ジョーさんに書いてもらいました。錚々たる面々に関わってもらったけど、バンド側に予算が全然なかったからほとんどタダみたいな値段でやってもらいました。もうむちゃくちゃな話ですね。

 

彼らが仕事を受けてくれたのは、自分達のバンドのサウンドが素晴らしくて将来の期待値にかけてもらったからです。言い換えれば投資を受けたということなんですよね。その後、無事に作品が出来て、色々な人たちの協力で、タワレコやヴィレバンに陳列することになりました。インディ欄ですが雑誌にもちらほら露出しました。それでもっと売るぞーーーとなった段階でフロントマンのA氏が失踪。バンド崩壊。俺は関係者に平謝りというオチです。その節はみなさま申し訳ございませんでした。投資を受けたのに失踪。言い換えればお金の持ち逃げですよ。はっきり言って人間関係考えれば逃げれる立場じゃないですよね・・・。僕自身はA氏が「紅白に出たい!」と言っていたから本気で支援していて、仮にお金にならなくても働きながら一定数のファンがいて週末にライブする生活も意味のある人生ではないかな?と思っていました。実際、彼の周囲にいたバンドやグループはマネタイズ出来ているかはわかりませんが、それぞれ一定の知名度を獲得するようになっていて、逃げずに頑張っていればその一人になっていただろうな、と思っています。僕も音楽大好き人間として、音楽のコミュニティーに貢献出来たら一回しかない人生の中で有意義なことが出来たと思うんですよ。だからこそ色々手伝ったわけだし、彼自身も売れたかったわけだけど、同時に露出することの恐怖心というアンビバレントな感情もあったのかな、と思っています。故に逃げちゃったと。ロックミュージックはセルアウト/アンチ商業主義のアンビバレントな感情にあると、ポピュラー音楽研究家の大和田俊之先生は指摘していますが、彼の場合もそうだったのかな、と思うしかありません。当時も今も死にてーと思っている懐かしい思い出です。僕は思い出で終わりたくなかったよ!!!!マジで悔しい!!!!!うわーーーーー・・・・ギャーーーーー!!!!・・・本当に関係者のみなさま申し訳ございませんでした。

 

会社に勤め上げる社会性も無いのでインターネットの某コミュニティーで知り合ったエンジニアの友人I氏と色々と事業を立ち上げました。事業の一つはIoTプロトタイプ製作というちょっと流行りのかっこいいことをしていました。一緒に事業をやるまでは意気投合した仲だったんですが、一緒に仕事し始めると問題がいろいろ発生するんですよね。僕がやらかした問題もたくさんあったんですが、その分リカバリーして様々な仕事を引っ張ってきました。しかし、I氏は「あれが嫌だ」「これが嫌だ」と仕事を選り好みするんですよね。おまけに途中で請けた仕事を相手の態度が気に入らないから破棄したいと言い出す始末。まあ、他社のプロトタイプ製作はアルバイトのようなもので、本当は自分達の作りたいプロダクトがあって、投資家から出資を受ける計画だったんですが、本人はプロトタイプを「絶対に作れる!」と言って一向に作らず。三年経っても作らなかったんですよね。完全に言うだけ番長ですね。誰かと一緒に何かをやることは何かしらの問題はあって当然と思っていたので我慢して何年も付き合っていた面もあったけど、この件のオチはI氏がガールズバーで女の子を引っ掛けて事実上の失踪をしてしまったことですね。また失踪かよ!って感じですがまた失踪されました。散々揉めていて冷え切った関係でしたが、一部の人間にだけ失踪することを伝え、僕には何も言わずに失踪。最悪です。当然ですが、引き続き行なっていた仕事は全て断り、取引先には僕が平謝りです。地獄再び。そして何も始まらずに終わるという経験も再びやってしまいました。もう笑うしかないですよねーははは。

 

年齢は無意味に重ねるし、大好きだった恋人と別れるし、 良い歳して実家暮らしというロクでもない状況しか残ってないのですが、幸いなことに実家が太いんですよね。故に経済的には何も困ってないし、僕自身の貯金もそれなりに持っているんですよね。就職するということも一時は考えたけど、発達障害のせいでコミュニティーに属せない性格で、経験上イジメられたり排除されるのがオチなんですよね。そうなると自分が幸せになるルートは一つしかなくて自分自身で事業を作り暮らしていくことなんですよね。ただ、今まで誰かと事業をやると失踪されたり仕事を全くしないという状況が起きてしまうので、それを回避するには自分一人ではじめるしかないというのが僕の結論です。共同創業者と揉めたりするというのはよくある話だけど、それが僕にもあったという話なだけです。もちろん複数人で運営してうまくやる人たちもいるのはわかっています。たまたま僕にそういう能力がなかったり、運がなかっただけです。ただ、次は失敗したくないので、創業者はもちろん僕一人で、契約と仕様で部下を雁字搦めにしてコントロールしようと思っています。そういうことをしていくとコミュニティにおいてリーダーは孤独になっていくのですが、歴史的に見ても支配者と隷属者というのは平等ではなく、契約と罰則で支配してきました。経営者やリーダーは孤独と皆言うのはそういうことです。構造的に仕方ないんですよね。僕はその辺が甘かったなと思っています。もしくは金の関係のみで相手がどうなろうと知ったこっちゃないというスタンスですね。商材の一つに集客支援などを考えていますが、僕自身は真面目に仕事をするけど、相手の事業が失敗しようが成功しようが知ったことでは無いということですね。以前の僕だったら一蓮托生だったのですが、今回違うのは事前にお金を貰っておくので、契約期間が過ぎればおさらばできる状態ということです。とにかく契約と金に関する事はルーズだったのが一番の反省点で、今後は起業家にありがちな夢とか情熱とかそういう曖昧な概念は全て捨てて、非情なビジネスマンとして生きようと思っています。がんばります。